1884(明治17) 年2月9日


 二月九日(香港日記)
 九日午後四時過ギ同行橋口氏ト墓見物ニ出掛ク 道ヲ知ラザルヲ以テ旅宿ヨリ駕籠ニ乗ジテ行ク 左方ニ進ム 然ルニ此方ハ右方ノ雑踏トカハリ仙境ニ入ルガ如キ所アリ 又文明国ニ遊ビシガ如キアリ 壮快ナル家屋アリ 運動場アリ 競馬場アリ 其間ニ軍人等相携ヘテ歩行ス 又本日ハ土曜日ナル故カ運動場ニ於テ衆人戯遊ス 楽隊ハ楽ヲ奏ス 実ニ心自愉快ナリ 山ヲ見レバ遠方カラ見シトハカワリ岩石起伏ノ有様画ケルガ如シ 山頂ハ植木無シ 麓ニ近ツクニ従ヒ樹生ス 麓ニ松樹多シ 併シ甚タ大ナル者ヲ見ス 却説橋口氏ト駕籠ニテ行ク 道路平坦也 而一本道也 路傍樹有リ 之ヲ見レバ枝多クシテ繁ル 而葉ハ榊ノ葉ノ如クニシテ小ナリ 根ハ四方八方ニマタガリ網ヲ張リシガ如シ 又枝ヨリ根ヲタル其長サ一間余ニ至ルモノ有リ 此木ハ生等ノ旅宿ノ辺ヨリ左方ノ路傍ニ植エタリ 右方ノ市街ニハ樹木ヲ見ズ 少シク進ミ行ケバ小坂アリ 登リ又下ル所ナリ 此ノ坂ヲ下リ右折シテ二三丁行ケバ競馬場ナリ 此辺四方山ニシテ景色美ナリ 偖此ノ競馬場ノ屏ワキニ竹ヲ植エタリ 是則鹿児島ノ金竹ナリ 而鹿児島ノ垣ナドニセシモノニ比スレバ至大也 又此ノ所ニハ小屋多ク作リ居タリ 是レ競馬ヲ見ルサジキト推察セリ 其柱等ハ小ナル丸木以テ作レリ 四ッ谷丸太ノ様ニ美ナルモノニ非ス 屋根ハ株梠ノ葉ノ如キモノヲ以テカヤ葺ノ如ク作リタリ 此辺路傍ニ草ノ様ナ木ノ様ナ其葉ハ細クシテ長ク葉ノフチニ針有リ而衆葉束ネタルガ如ク一ツ所ヨリワントヲヱタリ 余初メテ見聞セリ 此競馬ノ入口ヨリ籠ヨリ下リ遅々歩シテ墓所ニ至ル 到レバ其風日本ノ公園地ノ如クニシテ樹木雑植松アリ 蘇鉄アリ 其樹間ニ墓アリ 而此ノ所ニ植エタル樹木ハ余ノ未ダ夢ニモ見ザル者多シ 而カモ尤モ奇ト云可キハ夏ノ草花多ク咲キタリ 第一桜草又葵ノ如キ葉ニテ桃色ノ一寸桜ノ如キ花ヲ咲ク草日本天神ノ市ナドニ沢山有ル者也 其他名ヲ知ラザル草花等コテト咲キタリ 蜜柑ノ木ノ花咲キタルモアリ 松樹等緑ヲ争ウ中ニ又此ノ紅色ヲ交ヘ夏ト冬ト一度ニ来リタルガ如キ心地ス 又モウソウチク位ノ竹ニテ縦ニシマアル者有リ 又鹿児島ニテヘゴト云草アリ 其葉一本ノ長サ二間斗ニ至ル 而幹長ク地上ニ出テ殆ド蘇鉄ノ如キ風ヲ為ス 余此ノ墓地ヲ徘徊スルノ間奇妙美麗ヲ云ヒツヾケタリ 又一ツノ奇談アリ 今夜当地在留陸軍士官三浦氏(此ノ人ハ平田氏 大迫氏等ト同ジク士官校ニ在リシ人ニシテ十年戦争ニモ出ラレタリシ由 又楠公ノ墓前ニ於イテ衆人ト写シタル写真アル由ナリ 此段ハ無用ナレドモ一寸千田嘉吉兄ニ申上候 若シ写真デモ有之候得バ御覧ナサル可ク候)ト共ニ三人連レニテ食事ヲ為サント食事室ニ至リ三人机ヲ囲ミテ座ス 此ノ三浦ト云人ハ髪及ヒ服ニ至ル迄皆支那風ニ変ジ言語ヲ交エザレバ其日本人タルヲ弁スル能ハズ 已ニ昨日日本領事館ニ於テ始テ対面ノ日橋口氏支那人ナラント思ヒ其能ク日本語ニ通ズルヲ云ウ 其人答テ曰ク 我日本人ナリ 於是余モ亦始メテ其日本人ナルヲ知ル 然ルニ今夜食事室ニ入ルヤ外人亦其支那人ナルヲ思フ 亭主ラシキ白人来リ曰ク 支那人此ノ処ニ於テ食スルヲ得ズ 此ノ言タルヤ支那人ヲ入ルレバ他ノ客ニ失敬ニナル由ナリ(此ノ食事室ハ一机ニ四人ヅヽノ者数十アリ而今夜モ多人数食事ヲ為シ居タリ) 橋口氏大声叱シテ曰ク 彼ハ日本人也 非支那人 白人去ル 此時衆客皆何事ナルカト思ヒシヤ此ノ方ヲ見タリ 又直ニ黒人来ル 此ノ黒人ハ甚ダ黒クアラス 白人ニ類ス(当地ニハ日本人ニ甚タヨク似タル人多シ 併シ言葉ヲ聞ケバ外国人ナリ 是レ即チ黒人ト白人ノアイノコ也ト云) 此人ハ当家ノ幹事ノ如キ者ト見ヘタリ 橋口氏ニ言ウテ曰ク 彼ハ日本人ナリト雖モ服変ズ故ニ支那人ノ如シ 当家ニ於テ支那人ヲ此室ニ入ルヽヲ禁ズルハ規則也 請フ他室ニ行カン事ヲ 橋口氏曰 規則ナレバ止ヲ得ズ 故ニ共ニ倶ニ此ノ室ヲ去リ他室ニ至リ食ス 黒人拙者等ノ去リシヲ甚ダ気ノ毒ニ思ヒシト見ヱ色々小使ニ指揮ヲ為シソコツナカラシムルガ如シ 而シテ又来リ謝シテ曰 英人ハ自己ニ驕ル 実ニ只今ノ事ハ実ニかなしき次第ナリ 橋口氏答テ曰ク 心配スル勿レ 此一事ヲ以テ支那人ノ権利ヲ失フ又見ル可シ 我領地ヲ取ラレ其所ニ来住スル旅宿ニ行キテモ常人ト同室ニテ食スルヲ得ス 長嘆息ノ至リナリ 三浦氏曰ク 船ニ乗スルモ支那人ハ上等ニ乗ル事ハ出来ズト 諸君ヨ勉哉