1910(明治43) 年9月7日


 九月七日 (第二回鹿児島旅行記)
 五時前ニ目ヲ覚マシ川路君ト語ル 間モ無ク熊本駅ニ着ス 夜ハ漸クホノボノト白ム 併シ今日モ雨天ナリ 此処ハ川路君ノ任所ナレバ同君夫婦下車ス 人吉ニテ巡査部長四宮重敬ト云人弁当及焼酎三本持チ来ル 之レハ川路君が着後電話ニテ注文シ置キ呉レタルニ因ルモノナリ 焼酎ハ此地ノ名産ニシテ鹿児島ノ物ヨリモ香気アリテ佳ナリトノ評ナリ 川路君ノ報告ニテ父上ヘ土産トシテ買入レタルモノ也 是レヨリ雨霽レテ少シク暑サヲ覚ユ 山中遠山ハ雲霧ニ被ハレテ見エズ 近景ノ渓流又ハ原野ノ秋色ナド自然ノ儘ナル姿面白シ 矢嶽ノトンネルニ近ヅキ又雨フル 山中処々ニ人家アリ 稲 粟ナド作レリ 斯様ナル間ノ生活暢気ナランモ物資上ノ不自由ハ察スベシ 矢岳ヲ過ギテ下リ路トナル 最早僅三時間許ニテ着スルナルベシ 惨事ノ後父上ノ御様子如何ナラン 又御目ニ掛リテ何ト申上ベキ 吉松ニ到レバ雨又止ム 而シテ国分ニテハ照リ加治木ニテハ曇ル 重富ニ達スレバ南風俄カニ起ル 心岳寺山麓ヨリ望メバ白波遠ク連ナリテ地中海ニ於ケルミストラルノ時ノ如シ 又浪ノしぶき風ニ誘ハレテ霧ノ如ク立チ登リ汽車岸ヲ払フテ過ル様奇観ナリ 一時四十九分鹿児島ニ着ス 鮫島及吉川父子出迎フ