1904(明治37) 年8月19日


 八月十九日 金
 二十祭執行

同日の「久米圭一郎日記」より
今朝は大分ユルリと休み七時頃に起きた。すぐに崖を下り多摩川の清流に浴するなど中々価値のある所である。やがて朝飯が済むと又坐蒲団が敷かれたが今度はバランスが変して来て小泉老人が最低位に落ち大人は益々優勢である。午餐には川魚の煮びたしが出る。余り結構ではない。食後老人と小父さんとは昼寝、拙者は寝られないで自転車掃除を始める。大人は徒歩演習に出てあたりには見へず。三時になりて帰りの仕度に取りかゝる。再ひ乗輪悪路を踏行する事は小父さんは大に不賛成で立川まで汽車便乗説を昨夜から唱へて居たから拙者断然自転車独行を提言した処で日向和田の発車は最早最終六時四十分のを残すのみであるから不得已小父さんをして再輪行を決意せしむるに至つた。正四時といふに万年屋を出で青梅までの半分は沙利道を押し送り、夫から鞍に上り青梅の町は忽ちに通り越して分れ路に入つたが昨夜の悪路も存外骨が折れず小父の説では大傾斜あるに依るというのである。兎に角思つたより産むが易しでやがて桜並木の草むら路にさしかゝつたがこれも二三度小父さんが車輪を横道に入れた丈で大した困難もなく小川村に出て、是からはボア、ド、サン、ゼルマン的の大直路で小父さんも成る丈明るい内に飛せといふので風を切つて進行する。田無の町を大方過ぎて所沢分れ路の附近で氷屋に休んだのが丁度七時であつた。茲から点燈をして沙塵のフカフカした中を走るのは存外困難である。しかしそれも僅かの間で八時十五分には新宿停車場前の角の茶屋に着いた。茲で鮨なんか喰して連中の着を待ち九時半に汽車がはいり四人一緒になり新宿の蕎麦屋にて腹をこしらへ十時半に帰宅。風呂が涌いていたので充分に汗を流し洒然となつて休む。八月十九日 曇