本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年3月5日

 三月五日附 グレー発信 母宛 封書 一月二十日つけのおてがみたしかニあいとゞきありがたくはいけんいたし奉候 みなみなさまおんそろひいつもおかハリなくおげんきのよしなニよりおんめでたくぞんじあげます つぎニわたくしこといつものようニたつしやでやつぱりいなかニをりましてべんきようをいたしてをりますからごあんしんくださいまし さてべんきようをしてをるとハもうすものゝときどきハなまけますよ こんげつの一日のひから三日ニかけてまいにちまいにちゑんそくをいたしました このわたしのをりますところか六りばかりあるところのいなかニくめさんがこないだからいつてをりますのでぜひちよつといつてみようとハおもつてをりましたがいつこうとじまらずニをりました ところがくめさんと一しよニいつてをるがつこうのともだちのいぎりすじんのやつがもう二三日するとぱりすニかへるからそのやつがかへらないうちニぜひこないかとくめさんからゆつてよこしましたからとうとうふんぱつをいたしましてこの一日のひニでかけていきました こゝからぼつぼつとあるいていこうかとおもひましたがあんまりをそくなりますから二三りばかりてまへのところまできしやでまいりました そうしてそこでおひるごぜんをたべました そこハぶろると申ところニて二ねんばかりまへニいまそのくめさんといつしよニをるいぎりすじんと一しよニしばらくいつてをつたことがあります それですからやどやのやつなんどもみしつてをりましてひさしぶりだとゆつてよろこびました たつた二ねんきりやたゝないのですからなんニもたいしてかわつてハをりませんでしたがたゞそのやどやのむすこやむすめつこがをゝきくなつていたのニはおどろきました まづそこでおひるごぜんをたべまして一じごろまでゆつくりといたしそれからぼつぼつあるいて三じすぎニくめさんのところニいきつきました とちゆうハまるでなつのようニあつうございましたからきものをぬいでちよつき一つニなつてあるきました それでもやつぱりあせがでました くめさんのいつてをるいなかニハいぎりすじんのほかニあめりかじんがひとりをります そのあめりかじんもやつぱりがつこうのともだちニてたいへんわたしなんかとちかしくするのです 一さくねんのなつぼあにゆびるといふところニわたしがいつてをりましたときもそのをなじあめりかじんといぎりすじんといつしよニいたのです そのあめりかじんハそのいまくめさんのいつてるいなかニもう一ねんのよもすまつてをります そのやつハわたしなんかのようニびんぼうものですがなかなかぎりをたてるやつニてせいようじんニしてハまことニめづらしいやつです わたしなんかゞそのやつのところニいきましてもやどやのはらいなんかをけつしてさせませんよ なぜはらいをさせないかといゝますとわたしがをまいニあすびニこひとゆつてきたのだからをまいがやどやのはらいをするどうりハないとゆつてどうしてもきゝません きたいなやつです そこでわたしがひよつくりでかけていつたもんですからたいそうよろこびました またそのあめりかじんのやつハそこニしばらくをるつもりニてまるで一けんひやくしようやをかりきつてしまいましてすまつてをります 二日のひニハ十一時ごろニそこをたちましてわたしのをるいなかニみんなをひつぱつてまいりました ふをんてぬぶろうと申ところのもりのなかをあつちこつちとみちをまちがつたりなんかしてあるいたもんですからなかなかをそくなりましてこゝニついたときハなんでも七じごろにてもうまつくらニなつてをりました ずいぶんこのひハくたびれました やまのなかをぶらつくときなんかハなかなかあつくあせがながれました こゝでハわたしがみんなニごちそうをいたしました 三日のひニハこゝから二三りあるもれといふところまであるいていきましてそれからきしやでふをんてぬぶろうまでゆきそこでしやしんをうつしました これハこんどのたびのしるしでございます やまのなかやいなかのみちをあるくときのまゝのようすでみんなうつしたのですからなかなかおもしろいのです できてきましたらさつそく一まいか二まいおくつてあげますよ 十二まいを四にんでわけるのですからひとりで三まいづゝきりやとれませんよ ふをんてぬぶろうハりつぱなじようかニてまづとうきようへんニたとへてみましたらうつのみやとでもいゝそうなところです しやしんをうつしましてからみんな一しよニちいさなきたならしいめしやニはいりましてめしをたべましてそれからみんなニわかれました やつらハ三にんづれでやまみちをあるいてかへつていきました ふをんてぬぶろうからやつらのをるふろりといふいなかまでハなんでも三りか三りはんばかりもあるでしよう わたしもみんなニわかれてからぼつぼつとうちまであるいてかへりました わたしのをるところまでハようやく二りはんばかりです そうしてやまみちとゆつてもこのへんのみちハはゞハひろくなかなかりつぱニできてをります ふをんてぬぶろうからこゝへとうてをるみちハぱりすからのほんかいどうですからなをさらりつぱです たなかさんといふうちのおとなりのおかたがこちらニをいでなさいますよしもうおつきニなつたかもしれません 四五日のうちニぱりすへちよつとかへりますからきいてみませうよ またそのびんニけつこうなものをおくつてくださいましたよしまことニありがとうございます あつくおれいを申上ます おゑいさんニもよろしくおれいを申上げてくださいまし そちらでハまたまたわるいかぜがはやりますよしこまつたもんです せつかくごようじんんさいまし まづこんどはこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  ごようじんなさいまし めでたし みなさんへよろしく

1891(明治24) 年3月13日

 三月十三日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事大元気にて本日田舍より巴里へ参り申候 共進会への画も昨日迄ニてかき上候 今より四五日の間ハ出品の都合かれこれニすこしあちこちせねバなるまじと存じ余は附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年3月20日

 三月二十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎニわたしハまことニまことニたつしやにてこのごろハぱりへかへつてをりましてがつこうでべんきようをいたしてをります どうぞどうぞごあんしんくださいまし またぢきニいなかニいくつもりです きようしんくわいニだしますゑもとうとうかきとりましてがくニいれてきのふだしました せんせいニもこないだもつていつてみせました せんせいのおつしやるのニはできがかなりいゝからたぶんうけとられるだろうとのこと もしせんせいのおかんがへどうりニうけとられますようなつごうニなればよいがとおもつてをります またもう二三ねんもべんきようしたならたいていよくかけるようニなるだろうとせんせいのおつしやることです そうゆうわけですからどうしてももうすこしハこちらニをつてべんきようをいたしたいものとぞんじます 父上様ニもわたくしがもうすこしゑがじようずニなるまでハこちらニをいてくださるおかんがへのよしまことニありがたいことでございます わたくしもせつぺべんきようをしてなるべくはやくじようずニなるかんがへです うちのおとなりとかのたなかさんといふおかたもおつきニなりましたとのことニてそのびんからおくつてくださいましたけつこうなものハ二つゝみともこうしくわんにをいてございましたからうけとりました たなかさんニハまだおめニかゝりません あなたさまからのゆうぜんのきれはまことニきれいなものです これハことしのなつおんなのきものニしたてさせましてそれをだれかにきせてそのゑをひとつかこうとかんがへてたのしみニしてをります(後略) 母上様  新太

1891(明治24) 年3月27日

 三月二十七日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気ニ御座候間御休神可被下候 先便より母上様迄申上候通共進会への画も全く描終り差出し置候 今ハ只審査役人等の考一つニて陳列品中ニ加る事ニ御座候間先つ運を天ニ任かして安心致し居候 尤教師ヘハ前以テ見せ申候処至極満足之体ニて少女窓之そばにて読書之図之方ハ多分受け取らるヽ様相成べく共進会之審査役人も此の画を断る様な愚ニハ非ざる可しなど申呉れ候間たとへ断られ候とても気分よき事ニ御座候 且当年ハ幸にして教師も審査役ニ相成候故十ニ八九迄ハ首尾よくはこび可申と奉存候 此ノ前之週間ハ巴里之学校ニテ勉学仕候得共此の週の始より又々田舍ニ帰申候 併し五六日前ニ二日程雪降リ申候 余寒強く其上思ふ様な好天気少なく只部屋の中ニテ少シヅツ修業致すのみ思ひの外勉強出来不申閉口之至ニ御座候 学資金も来月分として二百仏丈残り居候まだ安心ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 私額面ニハ日本字ニて記名仕候方日本人の画なる事直ニ知れてよからんと教師申候 なる程日本人故日本字ニテ記名する事尤の儀と存即ち如左記し申候  明治二十四年   源清輝写  源とか平らとか云姓を記すニハ何んとか云規則(昔からの習わしの如き)もありてみだりニ書く事などハ出来ぬ者ニハ非さるかとも考へ候得共区役所などへ出す書き物とハ異り画之事故源とする方一寸面白しと思ひかくハ記し申候 又他日私が人ニも知るゝ程の画かきニ相成候時とても黒田と無くとて源清輝とあれバ黒田清輝なる事明と存候 御序ニ源平などの姓字のつかひ方御教へ被下度奉願上候 鋤柄清雄様より御手紙被下候得共未だ御返事差上不申候間御尊公様より可然御伝声奉願上候 実ハ何ニも書て上る事無てそれが為延引致候 以上 共進会へ出品の為四方より持ち出したる額面の数ハ六千ニて其内僅ニ千八百程のみ陳列相成事之由ニ御座候

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