本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1886(明治19) 年5月7日

 五月七日附 パリ発信 母宛 封書 だんだんとまたなつがちかよつてまいりましたがみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候おんことまことにまことにおんめでたくなによりけつこうなことでございます つぎにわたくしことはいつも申あげますとうりげんきなことにてべんきようをしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし どうもこちらはなんともかんともゆわれないよいてんきですからそちらもやつぱりよきおてんきがつゞくだろうとかんがへます せつぺせけんにでかけておあるきなさいまし わたしもちよいちよいちかくのいなかにふぢといふこちらにきておるあぶらゑのゑかきさんといつしよにでかけます わたしはあぶらゑはかけませんからたゞゑんぴつとかみをもつてゆきます そうしてふぢさんがかいておるわきでけいしよくをかきます そうしてあとでなをしてもらいます なかなかよいたのしみになりますよ またこれはたゞたのしみばかりでななくよいゑのけいこでございます こんげつのはじめからこちらのまいとしあるゑのはくらんくわいがはじまりましたからわたしも一どみにまいりました どうもどうもきれいなことです けれどもことしのはきよねんのにくらぶれバよいゑがすくないともうすことでございます あんまりゑがたくさんあるものですからわたしははんぶんもみないでかへりました またこのつぎのにちようにみにいかうとおもつております わたしがしやしんとりにゆくことはまだとじまりません こないだあらかわみのしさんにおめにかゝりそれからまたこうしんくわんでむらたつなたろうさんにもひさしぶりであいました けれどもわたしはみなさんがげしくをしておいでなさるところからずいぶんはなれたところにおるもんですからたびたびあいにゆくわけにもゆかずそのうちにおやすみもすんでしまつたものですからたつた一どあつたぎりでした もうたぶんみんなたつておしまいなさつたゞろうとぞんじます こんどはまづこれぎり めで度かしこ おせつくもすんでしまいましたねー 母上様  新太  このつぎのびんぐらいからしんじろとなをにゑいりしんぶんをおくつてやりますからそうゆつてください ほくかいどうにおてがみをおだしなさるときにはよろしく

1886(明治19) 年5月21日

 五月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 三月三十一日附ケノ尊書謹而拝誦仕候 其御地御尊公様御始メ御一同御揃ひ益御安康之由奉賀候 次ニ私事至極元気勉強致し居候間御休神可被下候 元老院ニテモ幹事被廃只議長議官ノミニ相成ニ付テハ御尊公様モ舊ノ議官ニ御復職被遊候由官費ノ御隱居定而御満悦ノ事ト奉遠察候 筆を取り剣を振りて国の為め盡せし君を神やわすれん 私事法律学を修行致し候積ニテ只今迄只語学ノミを勉強仕候得共能ク能ク将来ノ事ナドヲ相考ヘ申候ニ如御意今日ハ已ニ法律家も多キ世中ニ御座候間普通ノ法律学を学ヒ得テ帰国候とも左程国益ニも相成申間敷と被存申候 又今日ハ独逸学ノ世ニ御座候間仏学ニテハ政府ヘノ向き甚ダ悪しき事ならん 当地ニテ学士位ノ免状を得候ハヾ御試験ノ上政府ニテ三四十円位ノ小役人ニ取立被下カモ不知候得共(原文傍書)(是レモ至テ難キ事ナリ)貴重ノ金銭ヲ費シ数年間外国ニ在リ帰国後僅カ三四十円ノ為メニ繋カレテ面白カラザル御役人様ノ下ニ腰ヲ屈スルナドハ余リ心地能キ事トモ被存不申 さればとて政府ノ御影ニ付カザル時ハ三四十円ハオロカ忽チ活計ニ苦ムハ目前ニ御座候 如何トナレバ仮令西洋ノ法律ニ達シタレバトテ私如キ漢学ノ力ナキモノハ書ヲ著述スル事ハ勿論西洋書ヲ翻訳スル事サヘモ無覚束候 又通常ノ笑談デサヘモ口もづれて思ニ任セザル私ニ御座候得ば代言人ト為リテ能弁ノ名ヲ得ンナドノ事ハ最モ難キ事ニ御座候 右ノ如ク色色ト相考ヘ申候ニ法律専門ニテ国益ニナル程ノ事を為サンハ余程六ヶ敷被存候 依而今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修業ト決心仕候 於当地現ニ油画ヲ修業致し居日本画工三人有之候(五姓田・山本・藤氏) 皆日本ニテハ屈指ノ画家ト申事ニ候得共美術ニ長ジタル仏国ノ事ニ御座候得ば其人ニ乏カラズ 右三人ノ画ノ如キハ先ヅ西洋人ノ中ニ持出ス可キ程ノモノニ非ズト申事ニ御座候 尤モ何学ニテモ一通迄ハ皆々相達シ可申候得共只難キハ少シク人ノ上ニ出ル事ニ御座候 又画学ハ他ノ学問ト異ひ何年学べバ卒業スルト云事ハ無之年ノ長短ハ只其人ノ天才ニ依ル事ニ御座候 私一度決心致し候上ハ一心ニ勉強可仕候 其結果ノ好悪ハ只天ニ御座候 日本ニハ西洋諸国ノ上下院ノ規則及体裁等を熟得したる人に乏しき由 右ハ別ニ専門学ヲ要スルト云程ノ事ニモ無御座候間折角注意致し折可申候 左様御休神可被下候 当地此頃ハ随分あつさニ相成申候  むしのなく声を聞ても思ふかな我故郷のなつのゆうくれ 先ツハ御返事傍草々如此御座候 頓首 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年

 五月二十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)父上様がなんでもやいつけることのできるものをけいこしろとゆつておやりなさいましたからこんどゑをほんとうにけいこしようとおもいます 二三日のうちにわたしのしつておるずいぶんいゝせんせいのうちにいつてはなしをしてみようとおもつております(後略) 母上様  清輝拝

1886(明治19) 年5月28日

 五月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 寸楮拝呈仕候 追々暑気相催候処其御地御尊公様御始皆々様御揃益御安康奉賀候 次ニ私事至而元気勉学罷在候間御放念可被下候 先便より申上候通今度愈画学修業ト相定メ去二十二日兼而存居候コラント申当地ニテ随分評番よき画家ヘ目的ヲ述ヘ即チ弟子入仕候 依而同氏ノ指図ニテルーブルト申当地第一ノ博物館ニ在ル石像ヲ折角写居申候 已ニ三日続けて午後のみ相通ヒ申候ニ付右館内ノ風ニモ略相慣れ申候 古キ油画ヲ写しニ来リ居者ハ勿論石像ヲ写ス者モ随分多く有之其中女ノ画かきも不少候 見物人ノ沢山有ル中ニテ黄色人種ナル上ヘヘタナ画ヲかき居ルハ赤面ノ至ニ御座候得共是レモ肝ヲ大クスルノ一端ト存候得ば大先生ノ様ナ面ヲシテ平気ニテ写像スル等実ニ愉快ナル一件ニ御座候 昨日は木曜日ニテ諸学校半休日ナリ 依テ或学校ノ教師生徒一隊ヲつれて博物館見物ニ来リ私ノ顔色ノ異りたるト白紙上ニ只一線ノ引キアリシノミナルヲ見テ生徒等大ニ嘲リ之レハシヤレテオルト申候故ウマク出来テ居ルダロウト笑ヒながら答へたるものヽ実ハ赤面仕候 又同館従覧人中過半ハ英人ノ様ニ御座候 私画学ヲ始メタル事ハ当地ノ日本人ハ一人モ不知少シ出来様ニナル迄ハ秘シ置積ニ御座候 先ハ一左右如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 皆々様ヘ可然御伝言願上候

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