本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1888(明治21) 年10月5日

 十月五日附 パリ 母宛 封書 (前略)わたくしこといつもながら大げんきにてさる二日のばんにぶりゆくせると申ところからかへつてまいりました ことしのなつはまことによいたのしみをいたしました ぶらんけんべるくのばんはるとらんさんに八月一ぱいごやつかいさまになりそれから九月の二日の日にもうぱりすにかへるつもりでぶりゆくせるまでかへつてまいりました ところがまつがたさんたちが一しよにおらんだまでいかないかとおつしやることにてきゆうにおもいたち三日のひのひるごの二じごろのきしやにてまつがたさん なかむらさん たなかさんと四にんづれにておらんだへまいりました そういたしましておらんだのこうしくわんのしまむらさんと申おかたのおかげでこうしくわんにねとまりをいたしまた ごぜんもごちそうになつておりました まいにちおひるもばんもにつぽんりようりにてにつぽんへかへつてをるようなこゝろもちでした 九月の二十三日のひまでしまむらさんのごやつかいになつてをりました おらんだではなだかいゑを一まいうつしました そうしてかへるときにそのゑをしまむらさんにあげてきました がくにこしらへてかけてをくとゆつてをいでなさいました 二十三日からこの二日までぶりゆくせるにまつがたさんと一しよにをりました まことにおもしろいことでした このごろぶりゆくせるにはくらんくわいがございます(中略) がつこうもしあさつてからはじまるはづです そうするとまたずいぶんいそがしくなります こんどもいまゝでのようにけいこがよくいけばよいがとせつかくかんがへてをります(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年10月11日

 十月十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたしハいつもかわらずげんきでございますからどうぞごあんしんください まだがつこうハはじまりません それといふものハせんせいがせんのがつこうをやめてべつにほかのところにがつこうをたてるつもりにてもういへもめつかりかべなどもぬりかへましたけれどもどうぐなどがよくそろハずそれゆへまだけいこをはじめることができません こんつぎのしゆうかんのげつようからはじめるつもりです またけいこがはじまりますとひまがないようになります(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年10月19日

 十月十九日附 パリ発信 父宛 葉書 (前略)私大元気此ノ四五日前より学校稽古相始まり勉強罷在候間御休神可被下候 此頃ハ天気よろしく田舍へ出掛るニハ実ニ妙ニ御座候得共何分稽古始まり候ていそがしく意の如くならぬ次第ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年10月25日

 十月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 近日寒気相催候処御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極元気学校の稽古も已ニ相始まり折角勉強罷在候間御休神可被下候 教師より日本の百合買入方頼まれ候間甚ダ恐入候得共右御買入御送被下度偏ニ奉希候 実ハ今迄藤雅三と申当地留学の画工が教師の為め日本の花木買入ニ付て色々世話致居候得共同人儀先達御当地女郎同様の女を娶り候より色々不都合生じそれが為め教師の方も不首尾と相成候 依而今度私ニ右草花買入方を依頼したる者ニ御座候 甚ダ面倒とハ存じ候得共教師の事故致し方無御座引受け候次第ニ御座候(後略) 父上様  清輝

1888(明治21) 年11月16日

 十一月十六日附 バルビゾン発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉賀候 私事去る十二日ヨリ此ノバルビゾント申田舍ニ来り景色画ノ稽古仕居候間御安心可被下候 明日ハ巴里へ帰らんかと存候 バルビゾント申村ハ今日ニてハ欧米ニ知ラレタル場所ニ御座候 其レト申も此ノ村ニて世間ノ画工連ヲ離れて独り景色ヤ田舍ノ生活ノ状ヲ写して画を研究し一生ヲ貧乏ニ暮したるミレ ルソーノ二人ノ名が知れ渡りしヨリノ事ニ候 巴里ヨリ気車ニ乗リムラント申処迄来りソレヨリ馬車にて当地ニ来る都合三時間位モかゝり候 当地旅店モ三四軒有之当時でハ真ノ田舍ト申ニハ無之候 毎年夏期ニハ画工が男女まじりテ多人数舞ヒ込み来る由ニ御座候(尤モ亜米利加が多き地ニ御座候) 小き山モ有之岩ナドハ実ニ多く西洋ニハ珍らしき場所ニ御座候 只水ノ無キハ日本ノ景色ニ及バザルモノト存候 ミレ先生ノ子ト知り合ニ相成実ニ幸ニ御座候 年ハ已ニ四十位かとも見へ候 余程温和なる人物ニ御座候 先ハ一左右如此御座候 頓首 父上様 清輝

1888(明治21) 年11月30日

 十一月三十日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事至極元気毎日コラン先生の学校にて勉強致居候間御休神可被下候 此ノ週間より当地美術大学校の解剖講義ニ参り候間又少しく繁しく相成候 併し只一週ニ二度ヅヽの講義故大ニ仕合ニ御座候 其講義ハ実物ニ引キ合セての話ニ御座候間至而解し易きものニ御座候 先日ハコラン先生の御馳走にて町の立派なる料理屋ニ行き又共ニ散歩など仕候 不相変深切ニ致し呉れ候間仕合ニ御座候(後略) 父上様 清輝

1888(明治21) 年12月6日

 十二月六日附 パリ発信 父宛 葉書 今日ハ甚だ繁しく端書にて一左右申上候(中略) 丁度日本の手紙日に美術学校にて講義有之候間一層繁しき事ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様 清輝

1888(明治21) 年12月28日

 十二月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉賀候 私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 去二十三日より昨日迄例のバルビゾンと申田舍に友人(米人一人英人二人)三人ト出掛ケ毎日山の中を散歩仕候 大ニ愉快相極め申候 二十五日ハ耶蘇の降生日ト当地にて名ヅクル日にて西洋一般大祭りに御座候 同日の夜ハ田舍の旅店ニテシヤンパン酒などの御馳走有之客人亭主共都合二十人計りにて皆々歌を歌ふやら又西洋人の得意なる踏舞をするやらにて大騒き致し候 私も人ニすゝめられ致し方なく霜満□□(原文不明)云々の詩を大声にて歌ひ申候 異人等大によろこび候 踏舞ハ日本ニ無き者故なかなか真似をする事難く只人の踏舞をするのを見て馬鹿げたる者なりと思ひながら見物するの外無御座候 今四五日にて正月と相成事なれば御地ハ例の如ク色々な儀式の為に御繁しき事と奉存上候 先ハ御歳暮迄 早々 頓首 父上様 清輝拝  御自愛専要奉祈候  皆々様へ宜敷奉願上候

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