本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年11月6日

 十一月六日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)こないだハおゝさかへんでおゝぢしんがありましてしにんやけがにんなんどがたくさんありましたそうですがまづとうきようへんにハなニごともなくしあわせなことゝおんよろこび申上存候 父上様ニもあなたさまニもこのなつハすこしあつさニおあたりなさいましたよし はやくおなおりでまことニけつこうなことでした 父上様ニは十五やのおつきみニ新二郎やなをつななんかとびやひきさんなどをおつれなさつてかまくらニおいでなさいましたよし またあなたさまニハこきゆうをひいておたのしみのよしなニよりけつこうなことでございます(中略) わたしはこのまへのびんから申あげましたとうりこのごろハびんぼうをしきつてをりこの三日の日のてんちようせつニぱりすへでかけましたときにハもうほんとうニさいふがかるくなつてしまいどうしてもだれかニおかねをかりなけれバこゝのいなかニかへつてくることもまたぱりすニをることもできないようニなりましたがどうもひとニかねをかりることハあんまりおもしろくございませんからいろいろかんがへました どうしてもかいたゑでもうるよりほかニおかねのでどころハございませんのでとうとうぱりすニもつてをるだけのゑをちようど六まいほどはやしといふひとのところニもつていきましてその六まいのうちからいゝのだけ二まいほどにつぽんのおかねで五十ゑんばかりニかつてもらいました まづこれでちよつとあんしんいたしました そのはやしといふひとハここでしようばいをしてをりましてなかなかりつぱニくらしてをりあぶらゑがたいそうすきでわたしのきようしんくわいニだしましたゑをかをうとゆつたのもそのひとです かねがいるならいつでもかすからなんてゆつてくれましたがかりずにすんでしあわせです いまこいだけかいてをるところニ九月二十五日つけの父上様からのおてがみと八百十八ふらんのかわせとがつきました まづこれでをゝあんしんいたしました 父上様ニそのおれいを申上げてくださいまし(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年11月13日

 十一月十三日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極元気勉学罷在候 御休神可被下候 此の週間ハ何ニも可申上事無之候 来年の共進会の為ニ女子の肖像大きなもの一ついよいよ描き始メ申候 此の前の如く今度もいろいろな画三つ四つかきため置き其内よりよき様なもの丈持ち出す積ニ御座候 鹿の児の画ハ未だ本式ニかき不申候 私ハ鹿の骨組等未だ研究致したる事無御座候 鹿の画ハ一層六ケ敷事ニ御座候 今日ハ之レから木の画をかくが為め散歩旁近所の森の中ニ行く考ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  グレ村より 清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年11月27日

 十一月二十七日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもあいかはらずだいげんきにてべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハらいねんのきようしんくわいニだすゑをせつかくかいてをります らいねんもことしのようニうけとられるようニなればよいがとせつかくほねををつてをります らいげつの十日ごろニはぱりすニでかけましてらいげつ一ぱいハぱりすでべんきようをしようかともおもつてをります それといふのもいまぱりすニをいでなさるみやさんがらいげつの二十日ごろニおたちなさるはづにてそのおたちまへニひとつおかほをかきませうといふやくそくニなつてをりますからのことです ほんとうニとしますかどうだかまだしれません そのみやさんのおつきにはやさきといふかごしまのひとがをりましてちかしくしてくれます たびたびめしなんどもくひニいきます(後略) 母上様  新太拝

to page top