あとがき

 最初この日記を版に附するにあたって、第一巻の「はしがき」に記したように、全体を三巻をもって纏める予定であった。然るに、年次を遂って謄写するうちに予定枚数を超過し、後に記すように第四巻に多少の削除をほどこして漸く四冊に纏めることができた。

 次に巻を遂うて略解を加えると、第一巻には一八八四年(明治十七)二月九日から一八九三年(明治二十六)七月一日帰国途上ニューヨーク着までの滞欧時代を收めた。この時期には、未だ日記の形式をとつたものは少ないので、ほぼ一週間おきに東京の両親に送った書簡や葉書の中から選抜して加え、その日常生活の動静をわかるようにした。この巻では、中学校や私塾での勉学の有様のほか、当時パリの日本公使館を中心とする日本人の活動や、在留中の山本芳翠や林忠正、五姓田義松などの美術家たちの動静もわかる。しかも、彼が法律から洋画の研究へ転じた経緯や画家としてのパリ或いはグレー村に於ける制作活動が詳細に記されている。

 第二巻は、一八九四年(明治二十七)五月十九日から一九〇三年(明治三十六)三月二十八日までを収めた。この時期は、数え年二十八歳で帰国した黒田が、日清戦役に従軍画家として出征し、次いで京都に移って第四回内国勧業博覧会に鑑査官として「朝妝」を発表して世論をわかせ、つづいて大作「昔語り」の制作に熱情を傾ける。さらに、一八九六年(明治二十九)には、東京美術学校に西洋画科が新設されるに際して初代の指導者として招かれて東京へ帰り、つづいて白馬会を結成する。一九〇〇年(明治三十三)には、パリ万国博覧会やヨーロッパの美術教育調査のため再びフランスに赴き、翌年帰国を前にしてイタリア、ドイツなどの美術巡歴を試みている。唯この第二巻に收めた分の中には欠けたところがあって、年間を通して全く記されていない年もある。 また、この時代、殊に京都時代にはフランス文で記載された部分が多いが、特に邦訳は附けなかった。

 第三巻には、一九〇三年(明治三十六)四月十一日から一九一五年(大正四)三月二十日までを収めている。しかし、一九〇五年(明治三十八)、一九〇六年(同三十九)、一九〇七年(同四十)を完全に欠き、一九〇八年(明治四十一)、一九〇九年(同四十二)もわずかに数日分の記録である。従って文部省美術展覧会解説前後の記述を欠いているなど惜しまれる。しかし、東京美術学校、白馬会絵画研究所のほか学習院女学部に於いて学生を指導し、また洋画界唯一の帝室技芸員に推され、内外博覧会の鑑査委員や文展の審査員をつとめ、さらに国民美術協会を結成して会頭に挙げられるなど、次第に美術界の中心的人物としての活躍が目覚ましく、その日常は次第に多忙をきわめる。作品の上からは「鉄砲百合」「荒苑斜陽」「木苺」などを描いたほか、肖像画家としての名声が高まり「大隈侯肖像」「桂公肖像」など名士の肖像画の依頼が多かった。この多忙な日常の休息は、鎌倉の別墅奏笙軒での四季折々の生活であったが、この時代の終り頃から多少健康を害している。

 第四巻は一九一五年(大正四)三月二十一日から一九二三年(大正十二)一月七日に至る分である。この晩年は、文展の解消と帝国美術院の創設に努力し、つづいてその会員から初代院長森鴎外のあとを継いで二代院長となって文字通り美術界の大御所となり、また貴族院議員に当選して日夜美術行政、文化外交などに腐心する。反面、会議と訪問客にその制作はほとんど中絶し、芸術家としての苦悩がこの日記の行間に読みとれる。

 要するに、この全四巻の日記は、若くして異境に在って法律から洋画の研究に転進し、その才能を磨き、わが幼稚な洋画界のためにすべての力をささげて大きく飛躍させた時代から、止むを得ずその制作をなげ打って教育と政治、外交に徹した黒田という近代の文化人の記録である。

 なお編集に際しては、次の諸点に留意した。先づ原文は忠実に守ることを原則とし、傍線、傍書、欄外記入等は原文どおりとした。人名、地名などで誤解をまねきやすい誤字やあて字は適宣正しくし、濁点を欠くために判読しにくい場合は濁点を附した。さらに、原文に句読点がないため句点を一字あきとし、その他人名、固有名詞がつづいて読みにくい場合は半字あきとし、原文の空白、不明はその推定字数を□で示し、行間にその旨記した。曜日は、著者の記入あるもののみを附けた。また月日を示す行のカッコ内の記入(日記帖名、滞在地名等)は、編者の手により統一したが、主に著者の記した日記帖の表題によった。挿図は、書簡、日記帖にあるものは出来るだけ収録し、その日付の場所に載せた。写生帖などからの挿図もほぼ推定される月日の場所に収めたが、特にネームを付して転載であることを示した。最初計画した人名索引は紙数の関係もあってやむを得ず中止し、年譜だけに止めた。

 最初この日記を刊行するにあたって、黒田照子夫人の寛大な御諒解を得たことを改めて記し、篤く御礼を申し上げる。また本文中のフランス文の判読、校合についてはフランス文学者高橋邦太郎氏の懇切な御教示をいただき、編集、校正などすべてにわたって東京国立文化財研究所の関千代氏の協力を得たことを記し、謝意を表する次第である。

 なお「十三松堂日記」全四巻の刊行につづいて、この日記の上梓を実現してくれられた中央公論美術出版の社長栗本和夫氏をはじめ、同社の安田建一、高木行一両氏に対して改めて感謝する。

  昭和四十三年一月

  隈元 謙次郎

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