はしがき

 黒田清輝は、明治十七年数え年十九歳の時フランスに留学し、はじめ法律学を学んだが、間もなく洋画の研究に転じ、「読書」や「朝妝」などをサロンに出品して認められ、明治二十六年二十九歳の時帰国した。

 日清戦役を経過してわが国は、文化の上昇期に際会し、彼は東京美術学校に新設された西洋画科の初代教授に起用され、また白馬会を結成して新画風の普及につとめ、わが国の美術や文化に大きな刺激を与えた。

 その後、文部省美術展覧会の開設に尽力し、自らも多くのすぐれた作品を発表して帝室技芸員に推された。晩年には、帝国美術院々長、貴族院議員、あるいは国民美術協会々頭、日本工芸協会総裁、印度支那協会々長、宮内省御用掛、外務省情報部嘱託など多くの顕職に就いて、極めて広範な文化活動をなし、大正十三年五十九歳で没した。

 このように、その生涯は多彩であり、繁忙のうちに日々を送ったが、青年時代から日記や書簡によって日常の生活記録を詳細に書きとどめている。これらは、黒田自身の重要な伝記資料であると同時に、わが近代文化史の資料としても看過できないものである。そこで、特に黒田家の諒解を得てこの「黒田清輝日記」を編集し、三巻に収めて上梓することとした。

 第一巻には、明治十七年(一八八四)から同二十六年(一八九三)にわたる約十年間の滞欧中の日記や旅行記に、東京の両親へ宛てて送った書簡を抜粋して加えた。これらは、彼が法律学から画学の研究へ転じたころの苦悩、つづいてコラン教室やルーヴル博物館でのひたむきな研鑽、さらにパリ近郊のグレー村へ移って「読書」など数々の作品をえがいた三年間の日々の生活、さらに帰国を前にしてのパリでの「朝妝」の製作過程などもよく伝えている。また、三回のオランダ、ベルギー旅行、二回のブレハ島旅行や独仏国境旅行の記録も興味深いものがある。しかも、この間に、当時のパリ在留の原敬をはじめ多くの外交官や美術家、あるいはパリを訪れた日本人などの動静を窺うことが出來る。

 第二巻には、明治二十六年帰国後の活動、すなわち、天真道場の創立、日清戦役従軍、京都での第四回内国勧業博覧会や「昔語り」の製作、東京美術学校西洋画科の新設、白馬会の結成、第二回の渡欧とイタリア旅行、文展での活動など、明治末年までの記録を収める。

 第三巻には、大正期の文、帝展での活動、国民美術協会の結成、貴族院議員などとしての活動の記録を収める。なお、この第三巻には、年譜、索引などを附載し、また別に全巻にわたる解説を加える予定である。

  昭和四十一年六月

  隈元 謙次郎

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