1886(明治19) 年7月26日 Monday


七月廿六日 晴

午後六時離寝整容ノ後甲板ニ出テヽ臨メバ船ハ正ニ安南河[Donnaï]中ヲ溯テ走ル 河甚ダ大ナラズ東京隅田川ニ比スレバ稍狭キヲ覚フ 両岸平衍四望山ヲ見ズ所々椰子竹叢ヲ見ル 土民牛ヲ使ヒ水田ヲ耕ス甚タ我邦ノ生意ニ似タリ 七時船柴棍ニ着岸 纜ヲ繋ク 八時同行皆船ヨリ下リ馬車ヲ雇フ 余横山箕作塩野ト共ニ之ニ乗ジ市中ヲ過キ動物苑ニ至ル 柴棍ノ市街ハ香港ニ比スレバ甚ダ卑陋亦多クハ清人ノ居ナリ 但街路至ル所ニ緑樹ヲ行ヲ為シ涼風多シ 僅ニ市端ニ至レバ細草荒蕪砌ヲ為ス 我邦村落ノ光景アリ 動物苑ハ市街ノ西北端ニ在リ 境域甚ダ大ナラス又修潔ヲ欠ク 聚ムル所ノ禽獣中稍我輩ノ眼ニ異ナリトスル所ハ猛虎巨蛇猩々及数種ノ細禽等ニ過キズ 一回ノ後苑ヲ出テ車ニ上リ九時過船ニ還ル 車賃五十銭ヲ払ヒタリ 朝食後十二時過塩野金井ト共ニ再ヒ船ヲ出 艀舟ヲ雇ヒ(向岸迄ニテ十銭ヲ投ジタリ)直ニ市街ニ至リ散歩ス 市店昼間ハ多ク戸ヲ閉ヂ休業行人甚タ寂寞余等 Rue Catinat ト云フ通リヲ往遂セリ 此街府中ノ尤モ繁昌セル所ナルヲ覚フ 帰路此町ノ川岸ニ尽クル所ノ角ナル珈琲店ニ休憩シレモナードヲ飲ム(壱壜十五銭) 此頃丁度午後炎威ノ熾ンナル時ナリシガ兼テ聞キタル程酷烈ナラズ 樹下清爽涼気汗ヲ止ムルニ足ル 時余ニシテ船ニ還ル 晩食後七時塩野ト共ニ又舟ヲ出テ市中ノ夜景ヲ見ル 両側ノ樹下ニ卓子夜台ヲ置キ飲食物ヲ鬻キ甚タ雑沓セリ 市人皆軒下ニ出テヽ涼ヲ取リ酒ヲ飲ム又整容無シ 土人ノ服装ハ朝鮮人ニ似タリ 頭髪ハ額ヲ方ニシ後部ハ髪ヲ為ス一見スレバ我邦旧時ノ惣髪ニ似タリ 少々上流ノ士ハ黒色ノ羅紗ヲ着テ洋帽ヲ載ク 然レドモ其脚ハ多ク徒跣ナリ 又世人ガ伝聞スル如ク此地ノ土人ハ好ンテ檳椰実ヲ噛ム 故ニ男女共ニ其歯牙黒色ヲ為シ唇内丹シ実ニ陋習ト云フヘシ 一回ノ后市ノ入口ナル橋畔ニ踞シ涼風ニ休憩后船ニ還ル 此夜船室風絶ヘ頗ル暑威ヲ覚フ bétele

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例)「1886/07/26 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/869036.html(閲覧日 2024-11-01)