ガイドブックに描かれた文化遺産―絵のように美しい日光

私たちは何の前情報もなしに、文化遺産を観光することはできるのでしょうか?何らかのメディアに影響を受け、「訪れる価値があるもの」を観光するのではないでしょうか?本コラムでは栃木県日光を対象に描かれたガイドブックの一端を読み解くことで、日光東照宮や周辺の自然が旅行体験として視覚化され、観光資源として受容されていく過程についてご紹介したいと思います。

近世において日光は徳川家の祖霊を祀る聖地として江戸幕府の権威を支える重要な拠点でしたが、明治維新に伴う政権の崩壊により徳川家の庇護が失われると日光東照宮は荒廃し、新政府にとっても旧体制の象徴を保全することは優先課題とはなりませんでした。一方で、外交官などの特権階級の外国人が日光を訪れるようになると、彼らはその政治的な状況とは無縁な地点から日光の建築や自然を鑑賞し、著書やガイドブックを通してその魅力を広めていったのです。

江戸中期以降から日光の案内書は発行されており、『日光山志』(1837)はその代表的なもののひとつです。民衆の参詣のために日光の建築や美術品、自然物などの所在が豊富な挿絵とともに紹介され、名所ごとに分類された目次数は378個に及びます。全五巻構成で、巻ノ一では現在の日光駅から神橋周辺まで、巻ノ二では二荒山神社を、巻ノ三および巻ノ四では中禅寺湖畔や湯元における動植物を、巻ノ五では東照宮の建造物や儀礼などについて主に扱い由緒ごとに整理されています。『日光山志』は著者による解釈を控えており、文献や観察をもとに忠実に名所の特徴や由緒について解説する百科事典のような性質を持つものでしたが、行程まで提案するものではありませんでした。

『日光山志 巻之一』, 天保8(1837)年, 目録 , 国文学研究資料館所蔵
[出典:国文研データセット 日光山志 天保8 (1837)年刊][1]

イギリス人外交官・日本学者であるアーネスト・サトウ(1843-1929)は、初の日光の英文ガイドブック A Guidebook to Nikko (1875) の執筆において『日光山志』を参照していました。このことは巻末に「日光には、『日光山志』という全五巻、挿絵付きの素晴らしい現地のガイドブックが存在する」と述べられていることから明らかです。サトウにより1881年、1884年に改訂が行われた後は、日本学者のバジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)に著作権を引き継ぎ、A Handbook for Travellers in Japanとして1913年まで計9回もの改訂が行われました。

「日光とその周辺」(『A Handbook for Travellers in Japan 第6版』,1901年, pp.196-197)
[出典:INTERNET ARCHIVE][2]

A Guidebook to Nikkoは、名所の由緒について『日光山志』から引用されているものが数多くみられますが、その記述のされ方が大きく異なります。行程とともに限られた日程で「訪れる価値があるもの」を効率的に巡ることができるように、名所の取捨選択が行なわれているのです。三仏堂を「鮮やかな赤が背後に生い茂る丘の葉によく映える」と賞賛し、夜叉門を前景に木々の葉が重なる景色を、「日光の宝石であり、たとえ神社に他の見どころがなかったとしても、江戸から4日間かけて訪れる価値がある」のように表現しています。一方で「特記事項なし」「見るに値しない」と形容するものや、そもそも記述が割愛されているものも存在します。その取捨選択の基準は「中禅寺湖は芦ノ湖より絵になる(picturesque)」「絵のように美しく(picturesque)訪れる価値がある」(裏見が滝)といった具合に、「絵のように美しい」かどうかが評価のポイントのように思えます。

サトウが「日光の宝石」と称した風景

A Handbook for Travellers in Japanをチェンバレンが改訂していく際にもこのような性質が引き継がれていきます。観光地の発展とともに、建造物や美術品の特徴や由緒などのディティールが抜け落ちていく一方で、釣り・登山・ピクニック・散策などのアクティビティとともに日光として提示される地理的範囲が拡張し、「絵のように美しい」景観が発見されていきました。また版を重ねるごとに「絵のように美しい」景観の描写・ルート・所用時間・鑑賞地点に関する情報が補完されていくのです。チェンバレンは日光を総じて「自然とアートの二重の栄華」と位置づけましたが、この表現は莫大な資金を投じて制作された日本の公式英文ガイドブック An official guide to Japan (1914)にも引き継がれます。明治維新の混乱期に日本にやってきたイギリス人の評価が、現代の観光地日光の原型となったとも言えるでしょう。

「日光の社寺」は世界遺産登録されているまぎれもない文化遺産です。その見方は江戸時代からの文化的基盤を保ちながらも、政権の崩壊とともに幕府の権威としての意味は「過去」として切り離され、西洋的な価値観のもとに「絵のように美しい」「自然とアート」が一体となった景観の発見によって醸成され、その記号的意味がメディアにより再生産されることにより成り立っていると考えます。文化遺産の価値が誰かによって語られ、意味づけられることによって社会的に構築されていくものであるならば、その過程で観光やメディアとの接点を避けることは極めて困難でしょう。文化遺産保護と観光は相反する行為のようにも見えますが、どちらもメディアを通して「過去」を現代のまなざしで解釈し直す営みであるという点で、重なり合う部分を持っているのかもしれません。

米山大三郎 (YONEYAMA Daizaburo)

トップ画像:サトウが「芦ノ湖より絵になる」と称した中禅寺湖


[1]『日光山志』天保8(1837)年 , 『古典籍データセット(第0.1版)』, CC BY-SA 4.0 ,
   出典:国文研データセット 日光山志 天保8 (1837)年刊 (https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0263/049-0107/

[2]『A Handbook for Travellers in Japan, sixth edition』(1901) ,
   出典:INTERNET ARCHIVE (https://archive.org/details/handbookfortrav00cham/page/n7/mode/2up