沖縄における葬墓制の世界
沖縄に行ったことがある方は、本土と比べてはるかに大きなお墓を目にされたかもしれません。私は沖縄のお墓や葬儀(専門分野では「葬墓制」などと呼びます)を研究しており、ここではその世界を少しだけご紹介します。今年は沖縄本土復帰50周年の節目でもあるので、沖縄の歴史や文化に改めて思いを馳せていただくきっかけになれば嬉しいです。
沖縄の葬墓制って?
沖縄(正確には奄美群島も含む「琉球諸島」と呼ばれる地域)では、近世から戦後まで、遺体を土に埋めずに外気に晒す「風葬」をし、数年後に遺骨を「洗骨」してお墓に納骨する葬礼を行っていたとされます。地域ごとに差はありますが、村の人々が死者を龕と呼ばれる輿に乗せ、葬列を組んでお墓へ運び風葬をしました。数年後に遺骨をいったん墓から出して海水や泡盛などで洗骨し、厨子(甕)と呼ばれる蔵骨器に納めて墓室内に再び安置します。博物館などで厨子甕を見たことがある方もいらっしゃるでしょうか。骨壺と言っても絵付けやフォルムが味わい深く、今日では民芸品として愛好されたりもするようです。衣料品ブランド(株)BEAMSで売られているのを知ったときには大変驚きました(fennica読谷山焼北窯 松田米司 / 厨子甕 ずしがめ ジーシガーミ)。
お墓の内部には、遺体を安置して骨化させる「シルヒラシ」所(文字通り、「汁を乾かす」の意)と、厨子甕を並べる棚があります。多くの場合、お墓は家族や集団で使うため、たくさんの厨子甕が並べられるようになっています。このような伝統的な葬制が、沖縄のお墓が大きい理由と関わっていると言えるでしょう。
先史時代には洞穴や岩陰に葬る葬法の他に埋葬も主流でしたが、近世期に風葬、洗骨、厨子甕を伴う葬墓制へと徐々に収れんしていきます。中国からの影響とされる亀の甲羅の形をした亀甲墓も17世紀頃から普及し始めます。近世期、特に17~18世紀は沖縄にとって大きな社会的転換期で、1609年に薩摩が琉球に侵攻し、琉球国内で様々な政治改革が行われ、正史の編纂や王権儀礼の再編成なども行われました。明が滅亡して中琉関係の再編を迫られるのもこの時期です。なぜ、どのように風葬や洗骨が沖縄全域に広がっていったのか、謎を解くヒントはこの近世期にあるとみて、目下研究しています。
沖縄はその後も、琉球処分、沖縄戦、米軍統治、本土復帰と、壮絶な歴史を経験してゆきます。歴史のうねりの中で葬墓制も変化し、今では火葬率は99%、厨子甕も小型化し、本土と同じような骨壺も使用されます。沖縄の研究をしていると、中国、朝鮮半島、日本、東南アジアの影響が四方から及ぶ、海洋国ならではの文化の広がりと、複雑な歴史を辿ったことによる文化の重層性を強く感じます。こんど沖縄に行かれてお墓を目にしたら、そんな文化の側面にも思いを巡らせていただけたらと思います。
そもそも人はなぜお葬式をするのか
沖縄の人はなぜ風葬や洗骨のようなことをしてきたのか、少し考えてみましょう。そもそも人はなぜお葬式をするのか、と考えたことはあるでしょうか。「死」や「お墓」と聞くと怖いと感じる方も多いでしょうが、それが自分の家族や大切な人のものであったなら、きっと、ただ怖いだけではなく、悼み、愛情、感謝など、色々な感情が胸にこみ上げてくると思います。このような相反する感情について、心理学者のフロイトは宗教の起源に関する理論を提示する中で触れていて、学者が小難しく議論を重ねてきた事柄でもあります。結論を一言で言ってしまえば、「人は辛く悲しい「死」を乗り越えるために、お葬式をする」ということになります。時間をかけてお葬式を行うことで、悲しみに満ちていただけの感情に少し整理がついたり、ぽっかりと穴が空いてしまったその人の不在を周りが埋めてくれたり、数年が経って年忌法要も済めば、なんとなく故人がどこかから自分たちを見守ってくれているように感じられたり、そんなことがあります。ただ怖いだけの「死」や死者を「尊い祖先」へと変える役割が、お葬式にはあるのです。沖縄では「洗骨」をチュラクナスン(美しくする)、カルクナスン(軽くする)とも言い、長い年月をかけて風葬した後に骨を洗い清めてお墓に納めることで、沖縄の人々は「死」を乗り越えてきた、ということなのでしょう。
必見!文化財となっている沖縄のお墓
最後に、文化財指定されている沖縄のお墓から、私の独断と偏見で代表例を挙げます。ここまで書いた内容を踏まえた上で眺めれば、これらのお墓も少し違ったふうに見えてくるかもしれません。このように、文化財の裏側にある歴史や文化を紐解いて価値づけをしていくことも、人文学的研究が担う重要な役割だと考えます。
牛窪彩絢
トップ画像:重要文化財「旧和宇慶家墓」(石垣島)
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