1892(明治25) 年12月1日 Thursday 十二月一日(木曜日) パン屋ノ悪娑メガ騒ギニ来ヤガツタモンダカラ焼ケニナリ今夜モ船頭ノ婚礼ニフランソアズヲ連レテ踊リニ行ツテヤツタ 日本ヘ百廿一号出ス 軍艦ニテ帰朝シナカツタヲ喜ブ事発程ノ期ハ富籤如何ニアル事黒田ノ策略抔述ブ Hâvre S.Fran- 引用の際は、クレジットを明記ください。 例)「1892/12/01 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/870981.html(閲覧日 2025-05-19) 同日の「黒田清輝日記」より 十二月一日 木 朝もひる後も画部屋で勉強 ひる後ハ霜菜を手本として少シやつた 和郎も来て居た 例の如く和郎が夜話ニ来た 奴ハ人形ヲ造りたのしむ 日本へ出す手紙を十二時半頃迄かゝつて書た(十二月一日 木)同日の「黒田清輝日記」より 十二月一日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)らいはるのきようしんくわいニだしますゑが一まいハたいていできてをります もう一と月はんもかけバかきあげてしまうといふところまでいつてをりますがこのごろハさむいやらあめがふるやらニていかニもおてんきがわるくそとでかくことハちつともできませんのでしかたなくなかやすみになつてをります きようしんくわいにもちだすのハらいねんの三月のすゑですかららいねんになつておてんきがよくなつたところでまたこのゑニとりかゝろうとおもつてをります このゑハこないだおくつてあげましたおんなのゑとおなじおゝきさですがこんどのハひとがふたりでニわにをるところです うちのなかでかくのとちがつてそとでかくのですからよほどむづかしゆうございます につぽんでハこんなふうのあぶらゑハたんとハあるまいとぞんじますがこちらでハそとでのゑがおゝはやりです(中略) かごしまの父上様がこくぶのはちまんのぐうしニおなりなさいましたよしまことニおめでたいことでございます げつきゆうのとれるとれないハまづつぎのこととしてなんニもしないでくらすほどたいくつなことハないのですからこんどおつとめができてさぞおよろこびだろうとぞんじあげます こうがいのうちもりつぱニできあがりましたよしこんどのうちハまるでくわぞくさまのおうちのようだとのことさういふわけでハこうがいニいつてぶたのぞーわたをにてたべるわけニもいきますまいよ わたしのしやしんがとゞきましたよしわたしのあたまがもうすこしはげたらまつとかごしまの父上様ニにてくるだろうとぞんじます こんどハまづこれぎり めでたくかしく 母上様 新太拝 せつかくおからだをおたいせつになさいまし(十二月一日附 グレー発信 母宛 封書) « 十一月三十日 十二月三日 雨天 »