1892(明治25) 年1月15日 Friday


一月十五日

午前十時ヨリ昼迄稽古場 午後九十二号信ヲ認ム寒ノ事。内藤三郎ノ事ニ付人生ノ心得。商人ノ盛衰。帰朝者ノ賑ヒ。修行便。金ノ事抔ヲ記ス 又米国米屋ニモ手紙ヲ出ス 夜翁座迄散歩

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例)「1892/01/15 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/869916.html(閲覧日 2024-03-29)

同日の「黒田清輝日記」より
 一月十五日附 グレー発信 母宛 封書
 よかねんとぢごわんす みなみなさまおんそろひよき御としをおとりなされましたろうとおんめでたくおんよろこび申上候 つぎニわたくしことだいげんきにてぱりすでおせうぐわつをいたしました ことしのおせうぐわつニはをなじとしぐらいのともだちがをゝくをりなかなかおもしろいことでございました 三日のひニはこうしくわんでやくわいがございましてそのときニはわたくしどもが四五にんでしばゐのまねをいたしましてなかなかひとをわらわせました(中略)
  注 外題
  (「あさがほにつき やどやのだん」 あさがほ=黒田 駒沢次郎左衛門=三島弥太郎 士=井上 宿屋亭主=をさだ(長田) 若士=川村 下女=久米桂一郎 口上 義太夫=河北道介)
 ことしのおせうぐわつハこんなしばゐのまねなんかゞあつたもんですからいまゝでのおせうぐわつよりよつぽどにぎやかでした それといふのもこんどみやさんはじめこうしくわんのはやさきさん かハさきさんなどいふひとたちがにつぽんニおかへりニなるのでそのおわかれのおゆわいをやつたのです そのひとたちハみんな九日のひにたつてしまいました(中略) ちようどきよねんのくれかこの二十日ばかりのあいだといふものハたいていまいにちみやさんのところニゆきそれからみしまさんのところニいきをりましたもんですからみなさんが一ちどきにおたちニなりきゆうニさみしくなり一日もぱりすニをるのがいやでしたからすぐおたちニなつたそのよくじつニまたいなかニかへつてまいりました ちようどそのひのゆうがたからゆきがふりましていなかのけしきハなかなかよろしゆうございます まだしばらくのあいだハきへないだろうとぞんじます
 さてこんどおたちニなりましたみやさんのおつきのはやさきさんといふおかたハかごしまのひとニてわたくしたちをたいそうしんせつニしてくださいました みやさんもたいそうていねいニしてくださいました わたくしがかきましたみやさんのおかほハあとからおくるようニとおつしやりましてわたくしニおあづけニなりましたからいづれそのうちニおくるようニいたしませうとぞんじます それからかわさきさんといふこれもやつぱりかごしまのひとからおせんべつニおかねを百ふらん(につぽんのおかねで二十五ゑんばかり)もらひました これハおとどしのなつかきましたゑをしんもついたしましたからそのれいかたがたなニかあげたいがゑのほうのためニなるものはなニがいゝかしれないからしつれいながらかねをすこしばかりやるからゑのぐでもかつてくれと申されました まことニしんせつなことです そのまゝもらつてをきましたからそうおもつてゐてくださいまし(後略)
 母上様  新太拝
一月十五日附 グレー発信 母宛 封書