1905(明治38) 年6月3日

午前一ツ橋。今夕林忠正歓迎会上野梅川にて開く。昨日佐野と和服で出掛ける約束をした。五時半より一緒に電車で行つた。来会者五十余名。博覧会連は大概集つた。別段変つた事はないが踊なんか念入りのやうである。大枚五円の会費は少々閉口の体、依例如例で九時半頃から大きな折を提げて佐野と二人で帰る。時勢も大分変つたやうに思はれる。 其後光風原稿と試験とに追はれて丁度一ト月というものは日記は御無沙汰をしてしまつた。日本海の海戦に空前の大勝利申分なく流石の大国も手も足も出ない次第で穀威張の材料は全く欠乏の姿となり愈米国大統領ローズベルトから、人道の為め、世界の進歩のためといつて講和勧告が公然発表されたのは六月十日か九日かであつてそれから露西亜も例の優長なやり方で生返事していたが遂に華盛頓を会合の場所とする事になり、双方から全権委員が出発するまでに運んたが果して一度で物になるかは疑問であつて不調に畢るのが順当らしい。併し無論此間に今一トいき陸上の大打撃を加へる手筈はついているだろうと思はれる。どつちに間違つても最早心配はない訳である。此間の記臆を拾ひ書にすれば、高商学校では今週金曜限り稽古をやめるというのでとても真面目な稽古は出来ない。本一も予科も不規則動詞をやりかけて此学年は仕舞ひにした。それでも九日の午後までは出る事は出た。上野では考古学の方は六日限りで仕舞ひ解剖は十五日までにて終つた。

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