今泉雄作(1850~1931年)は、文部省や東京美術学校(現、東京藝術大学)、東京帝室博物館(現、東京国立博物館)に勤務し、岡倉天心とともに近代日本の美術行政を支えてきた人物です。東京文化財研究所が所蔵する『記事珠』全38巻は、その今泉が、明治20(1887)年から、大正2(1913)年にかけ目にした美術工芸品について、略図を交えながら記録した手控えです。本サイトは、当研究所企画情報部のプロジェクト研究「文化財の資料学的研究」(平成23~27年度)の一環として、この『記事珠』第一巻の全頁デジタル画像と翻刻テキストを公開、さらに検索機能を設けて研究に資するようにしたものです。

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staff

  • 翻刻:吉田千鶴子
  • 翻刻協力:大内曜・依田徹
  • 注釈:塩谷純・依田徹
  • 全冊子リスト作成:田中潤
  • サイト作成:小山田智寛


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   建武二年歳次乙亥
  釋迦如来圓寂
  以来舊家二
  千二百八十四年
  新家一千九百
  四十一年
   博物館蔵

五月廿三日 雷なり 夕立する 直に天氣になりぬ 近年
に稀なる事也 今年ハ未だ涼しけれとも今日ハ天如何の類と
なれハさもあるまし
十一面観音 背銘 (後光ハ鎌倉時代 至てよろし 精工 材ハ楠也)
        仁和四年三月 日 菅原道真造

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八関斎〔篆〕額
〔篆隷書筆記〕 廿四日見

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三十日見ル 〔図〕春図根ツケ 作精工 〔図〕
六月五日 おつの寫生 〔眠る猫の図〕

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椿亮左衛門 名真知 字子龢 号蓼邨 一号荷吝 
         道学先生 書ヲヨクス 裏二番丁ニ住ス
初庄助 天保十四己卯年乙科生
山本庄右衛門 名堯直 字孟清 号函湖 一号天城山樵 別号眠雲
山本家 九月三十日心越忌の献立
 座付 甘酒 味噌吸物 めろが

類合 大矢透君ノ蔵 角五郎氏ノ贈ル所ト云
 朝鮮学士李退渓倣千字文而作千五百文名云
 類合初学童子必讀之書
 明治十七年五月 勿軒求之 勿軒ハ井上角五郎氏也
 右ノ書 壹貳ニ始リ事〔与〕物也ニ終ル 未ニ武橋新刊
トアリ 壱葉六行 行六字 二十二枚アリ
 類〔ハングル〕异合〔ハングル〕 壹〔ハングル〕貳〔ハングル〕
 参〔ハングル〕
此の如く字の右へ訓 左へ音を付
けたり 
未に武橋新刊トアリ


大矢透
一八五一~一九二八。国学者、国語学者。号は蔦廼舍・水斎。嘉永三年、越後国に生まれる。著作に『仮名遣及仮名字体沿革史料』。昭和三年没。

角五郎
井上角五郎。一八六〇~一九三八。政治家、実業家。万延元年、備後国に生まれる。慶応義塾を卒業後、朝鮮国の外衙門顧問(外交顧問)として招聘、甲申政変によって失脚。後には実業家として京釜鉄道、南満州鉄道、北海道炭鉱鉄道などに関わった。昭和一三年没。

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 朝鮮本呂氏郷約一本 佐藤誠実君蔵
  巻首ニ〔印の図 宣賜之記〕ノ印記アリ
  表紙裏ニ
   正徳十四年八月 日
   内賜礼曺佐郎房貴温呂氏郷約一件(一行)
   命除謝(二行)
   恩      左副丞百臣朴熹
  蓮花唐草 白色表帋
  壱葉十行々十八字 漢文ヘハ朝鮮点ヲ漢字ニテ挿注ス
  一章毎ニ朝鮮文ノ訳文アリ
  巻末ニ 圓光寺常住 コレハ日本人也 元信〔花押〕


佐藤誠実
一八三九~一九〇八。国学者。天保一〇年に生まれる。『古事類苑』の編集長を担当した。明治四一年没。

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又〔図 復齋〕黒印アリ 分捕本ナル可シ
定家卿歌集切 七月五日多田にて見
 はやくよりきゝならしけるいのちさき
 すへの人さへたのもしきかな
   ひえのやまにすミ侍ける人の
   たき〔書損アリとルビ〕ものをたひといへりけれハ
   梅花のわすかにちりのこりたるに
   つけてつかハすニて
 春たちてちりハてにける
 むめのはなたかはかりそ
 えたにのこれる
色紙のつかりのこりに四半本なるべし
台紙銀泥散梅泥引
歌ハ拾遺に名ハ如覚法師トアル由
九條師輔卿〔筆〕在元享釈書
多田氏の考に如覚の集なるべし

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  千翁院休曹日云信士 明治廿年六月廿九日十一時四十分卒 
  歳六十六俗名萬屋〔横に河野〕千蔵なる叔父
  寺谷中善光寺坂上佛寿山上聖寺日蓮一致派
七月十五日朝 
瓶中蓮
写生 〔図〕

さし渡し五寸七分強 
高サ二寸六分 
下薬
うは薬〔図〕

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ぐり 高二寸七分 
つばさし渡六寸九分〔図〕
尾州宮大法寺傳来
 雨滴天目 
 九輪糸茶臺
 右両器は
 太閤秀吉公北野大茶湯
 御會之砌御用之品ニて御近臣奥山
 佐渡守拝領仕依之當山開
 基田山和尚所持仕候、已上、
 三月 大法寺〔印〕大法寺悦元

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 傳由
 一 雨滴  天目
 一 九輪糸 茶臺
 右御器之儀は往古
 太閤秀吉公於北野
 大茶湯御催之砌
 御用御品ニ而尾州
 大法寺傳り候處由緒有也 
 文化七庚二月被相贈候故
 所持仕候以上 
 午二月 關■宗俊〔花押〕
中井敬所の蔵 中世印度コムパニー彫込の佩印〔図〕
〔図 四角のみ〕


中井敬所
一八三一~一九〇九。篆刻家、印章研究家。天保二年、江戸本所に生まれる。明治一三年に日本国国璽を制作。明治三九年帝室技芸員に任命。明治四二年没。

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小乱箱 ふち なまり 蝋いろ 伴三 黒 いなつま 金 くも 銀 三三 銀たみ 雨 つはめ まき恵〔図〕 上野勧工場道具屋ニ見る

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巨勢風古画愛染明王の軸金物〔図〕
行〔厳〕般若十六善神
月山筆琴碁書画
住吉具慶つれ〳〵草 弐枚
住吉如慶 春画 拾弐枚
雪舟 真山水 探幽手■
外古画愛染明王 一ハ公望極
 右七月廿二日 辻次官宅ニて見る
大般若波羅密多經巻第四百廿三跋
 東大寺八幡宮
  安貞二年戌子仲春上旬
      理阿弥陀仏 (梵字) 梵字(梵字)ヲ日本風にかきし也 めつらし

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小山田与清旧蔵 南都古刹の反古中にありしよし
 治暦元年招提寺
   夏日詠和歌
      藤原意輝
   秋夕
  末の露もとの雫の
  なかめまてたかならハしの
  あきの夕暮
太平御覧全部百六十巻 壱巻の始りごとに
   〔図〕
  明朝の活字本也 めつらし


小山田与清
一七八三~一八四七。江戸時代後期の国学者。天明三年武蔵国に生まれる。弘化四年没。

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〔印の図〕楽焼茶碗の印
 これハ近き頃?小石川水戸邸ニ竈ありて
 御慰ニやかれし御
 庭焼とぞ 但し いろ〳〵あるもの也 楽のミに非す 
〔印の図〕老〔早〕小隠 備前焼ニあり これハ近年池田侯旧蔵 
尹部の工に命してつくらせられしものとす
隣家尾形■■宅に見る
 二重切金森宗和    巾壱寸九分 五寸一リ八分 壱尺九リ
 〔図〕
 価八拾五銭故かひ置 宗和〔花押〕 ■此字ぬり上になりてある故いやなれとも
竹の工合といひ■■
といひ宗和のこのみなるべし

とふ店 善立寺 十返舎一九かはかあり 戒名右の如し
 ――――――――――――――
 開楽院妙入日心信女 文化二丑年八月十七日
 心月院一九日光信士 天保二卯年八月七日
  辞世 此世をはそりやおいとまにせん香とともにつひにハ灰左様なら
 心覚院妙智日春信女 元治元子年八月四日
 深入院解脱日持信士 弘化三午年七月三日
 真仰院妙悟日光信女 嘉永元申年十一月十二日

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〔器物の図〕奈良大鐘 赤ハタ
 時代ふるし 然れとも寛政中窯再
 興の後の〔印〕也 廿年八月十三日隣家
 素介子より贈らる 
 銘を餅屋としてたがやさんにて蓋をつくり薄茶器
 につかハヽよろしからんと思へり
 肥前稲佐焼といふものあり 土ハ赤土にて
 荒くかわらけの如し 薬ハ萌黄薬にて
 恰も高麗の如く上手也
 白高麗の爵を見る つやに黄はみありて
 上品也
 〔図〕手つくね朱地急須 面白し 
  右之品素介君蔵

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  朱泥の急須を作るにハ全く手つくねにして
  土を板にあけ箆にてたゝき形をつくり両
  頭を箆にて切る 
  たとへハ〔  図  〕この印しよりきりて此の如き形を得て後
  底をつくり入れる也 尤も仕上けハろくろ
  にてするといふ これハ支那にて習ひし職工
  尾州へ来て作るを見し
  素介君のはなし
くわゐの葉 八月十三日写生
  〔図〕〔図〕

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應永のかなこよみ 裏ハ当時の記録
 この断簡佐藤誠実君の手ニ入りたりといふ
 系を引きてかきたるものにて恰も好古
日録のかなこよみに彷彿たり
――――――――
目黒の比翼塚ハ東昌寺といへる寺なりしが
今ハ廃寺となりし 当時料理店はしりや
にて昔話をしてゐるよし也


佐藤誠実
一八三九~一九〇八。国学者。天保一〇年に生まれる。『古事類苑』の編集長を担当した。明治四一年没。

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通弐丁目飴屋の娘ハ余の幼少の頃評判
なりしか今に現存せり 名ハますといふ
といへり その頃の流行歌「通二丁目の飴屋の娘誰にさせよか気かもめる
下戸塚村北野天神之裏
 真浄院廃寺の跡 高麗環 姓鄭名環字君受善書又善剣通称兼作往■及裙を用ふ
  覚道帰本信士 明治廿年八月十四日午後九時卒 六拾五歳
  真浄院の跡■の寺ハ麻布芋洗坂教善寺ナリ
南豊嶋郡下落合村五百六十八ばん
  高田嶋次郎方 高麗■■■
下戸塚村西百四十九番地 高麗■

八月十六日午後三時頃より大風雨 雷電
殊ニ甚し 東京落雷二拾余所といふ 妻
小鳴 蚊帳裡ニ妄頓して殆と死せる如し 
此前より数日血暈の氣味ありしハ雷後
腹瀉をなし病頓に癒ゆ 又一奇といふべし
八月十九日日食 弐時三十六分右の下より
             後かけはしめ
             三時四十八分甚しく
             四時五十弐分上り〔て〕左の間にをハる
 〔日食の進行の図6点〕 四時四十八分甚しき時


八月十九日日食
明治二〇年八月一九日、日本で日食が観測され、新潟県、福島県、栃木県、茨城県の一部が皆既帯となった。

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探幽小屏風圖中の亭
 八月廿一日 
 兼吉の家ニ見ル  〔図〕
 井亭或ハ泉亭なといふハかくの如くならん

   本郷警視病院うしろの方
 井上竹逸翁之寺 大善寺
算術関係祖関新助 忠印 墓 牛込〔吉〕願寺丁常立寺
山鹿甚五左衛門墓 牛込宗参寺
新長谷寺沙弥
 釈 戒本 慈海 慶淳 霊巌 大智 浄厳


井上竹逸
一八一三~一八八六。幕末期の文人画家。文化一一年に生まれる。本名は令徳、通称は玄蔵。画技は谷文晁、渡辺崋山に師事して文人画を学んでいる。また鳥海山人に学んだ七弦琴においても名を馳せ、今泉は竹逸より七弦琴の伝授を受けている。明治一九年没。

算術関係祖関新助
関孝和。一六四二~一七〇八。江戸時代の和算家。ただし孝和の墓は牛込の浄輪寺である。

山鹿甚五左衛門
山鹿素行。一六二二~八五。江戸時代の儒者、軍学者。

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