ローマの旧シネマ・アメリカ

旧シネマ・アメリカ(ローマ市トラステーヴェレ地区)

ローマ留学中の2016年夏、アルバイト先の同僚に誘われて無料で開催される星空上映会に出掛けました。映画についての素養がまったくない私ですが、フェルザン・オズペテク監督の『無邪気な妖精たち(Le fate ignoranti)』(2001年)という、男女の性を越えた三角関係を大胆かつ繊細に描写した映像と、それにまつわる監督自身のスピーチが今でも鮮烈に脳裏に焼き付いています。現在でも夏季に行われる、この「広場で映画(Il Cinema in Piazza)」というイベントは、市内のある映画館が解体の危機に瀕したことから開催されるようになりました。今からお話しする内容は、「近現代建築等の保護・継承等に係る海外事例調査」で私が担当したローマの歴史地区にある「旧シネマ・アメリカ(L`ex Cinema America)」についてです。
一般に文化財といえば古いものがほとんどで、戦後建築に関する全国調査が2002年に始まったイタリアでも、その保護はまだ例外的といえます。ではこの映画館、どのようないきさつで文化財に指定され、解体の危機から救われたのでしょうか?その理由について私は、1)保存運動が社会を巻き込む大きなうねりになったこと、2)関係する自治体や機関が迅速かつ積極的な措置を講じたこと、3)文化遺産の保護と文化活動の促進が国家の原則であること、の3つがカギになっていると今回の調査で感じました。

1956年に建設された旧シネマ・アメリカは、トラヴァーチンやモザイクといった伝統的な装飾とともに、当時としては市内最大のパノラマスクリーンや開閉式屋根といった革新的な技術を採用しています。他方、 “cinema AMERICA”という大きな電飾や低い軒は、19世紀末の様式で統一された周辺の街並みの中でやや異彩を放っているようにも見受けられます。こうした特徴をもつシネマ・アメリカは、戦後の復興が進むローマの街にふさわしい映画館として多くの人から愛されてきましたが、2000年に閉館します。そして、建物を取得した業者は、これを解体して新築する計画を2004年に提出します。それに対して文化省は翌2005年、建物が周辺と不調和なことを理由に賛成意見を示しました。また、歴史地区の取り扱いを定めた2008年のローマ市都市計画でも、同館は保存すべき建物として特定されてはいませんでした。
こうした公的機関の見解をもとに業者が新たな工事計画を提出した2012年、これに反対する20代の若者たちが「小さなアメリカ基金(Fondazione Piccolo America)」というグループを立ち上げ、建物を不法占拠します。当然、業者は立ち退きを求める訴訟を起こし、2014年に強制退去が行われます。しかし、-これがまたイタリア人らしい行動だと思いますが-、この出来事をきっかけに、市民、映画界、官僚、政治家などによるデモ行進や新聞記事を通じ、映画館の再開を求める基金への支援活動が活発になります。そしてその年、ローマ市の都市開発局は文化省に対して旧シネマ・アメリカの文化財指定を要請し、省はこれを実施しました。
文化省がとった2005年と2014年の二つの措置は、お分かりのように完全にあべこべです。業者は、「旧シネマ・アメリカへの評価が自由裁量的であり、突然の指定により混乱を招いた」として文化省を提訴します。しかし、これに対して裁判所が出した判決の内容を皆さんは意外に感じられるかもしれません。判決文では、建物の価値について二つのポイントが示されています。一つは、建築設計や装飾といった点で傑出するという、モノに「内在する」価値です。そしてもう一つは、戦後ローマの文化史上で果たした役割と保存をめぐる一連の運動や世論という、モノに「外在する」価値です。つまり、建物の有形的な要素だけでなく、その背景にある人々の記憶や思いをも支持したといえるでしょう。2014年の文化財指定に理ありとする裁判所の判決は、一企業の経済活動に対して市民全体の文化的利益が優越することを根拠としていますが、これを保障するのが文化遺産の保護や文化活動の促進を謳ったイタリア共和国憲法の第9条であり、これは国家の基本原則です。

不法占拠という形ではじまった情熱的な若者らの運動が、すべての市民により共有される文化の権利を訴え、その勝利にむけて関係機関が真摯に動いて保存を実現したことは実に痛快であり、この映画館にまつわるエピソードの真骨頂であると私は感じます。わが国でも、建造物だけでなく遺跡や緑地の保存を求める運動が時おりニュースになります。こうした市民の声は、近年に限られたものではなく戦前にも確認することができますが、その甲斐なく失われていったものは多いように感じます。「守りたい、伝えたい」という心を現在の制度でどのように形にしていくのか、あるいはさらにどのような制度が必要なのか。文化財の保護を研究する私たちが次世代に対して負っている責任を、今回の調査を通じて改めて実感しました。

松浦一之介

トップ画像:旧シネマ・アメリカ(ローマ市トラステーヴェレ地区)