白馬会の時代
《朝妝》をはじめとする滞欧作をたずさえて日本に帰国した黒田清輝は、当時唯一の洋画団体であった明治美術会でそれらの作品を発表する。その明るい色彩にあふれた画面は、それまでの暗い、“脂派”と称されたスタイルに対し“紫派”と呼ばれ、洋画壇に新風を吹き込むこととなった。
またパリでサロン入選という西洋絵画としてのお墨付きを得たはずの《朝妝》は、明治28(1895)年の第4回内国勧業博覧会に出品されるや、その公序良俗をめぐって、いわゆる裸体画論争を引き起こす。裸体表現こそ洋画の基本とする黒田は毅然とした態度を固持、その後も世間を挑発するかのように裸体画を制作・発表し続けた。
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このように新進の洋画家として注目を集めた黒田は、明治29(1896)年5月に東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が創設されると、その指導者として迎えられる。さらにその翌月には、官僚的な明治美術会に対抗して自由平等を掲げた白馬会を久米桂一郎らと結成し、留学後3年にして黒田は名実ともに洋画壇の中心的役割を担うようになったのである。
《昔語り》下絵および画稿(油彩42~54、デッサン146~163)は、白馬会の第一回展(明治29(1896)年秋)に出品されたものである。《昔語り》の完成作(焼失)が発表されたのはその2年後であり、黒田はまず入念な準備段階を公にすることで、アカデミックな西洋絵画の制作過程を知らしめたかったのであろう。裸体画の推進と同様、西洋美術の本流を正しく伝えようとする黒田の強い信念をそこに見てとることができる。
さらに黒田は明治30(1897)年の白馬会第2回展に《智・感・情》を発表する。《智・感・情》は裸体画であることにくわえ、裸婦のポーズに象徴的な意味あいを持たせようとした意欲作であった。同作はその後黒田によって加筆され、明治33年のパリ万国博覧会に《婦人習作》として出品、銀賞を獲得している。
今日、黒田清輝の代表作としてひろく知られている《湖畔》(明治30(1897)年作)も、この時期の作品である。のちの夫人をモデルにしたこの画は、箱根での避暑中に描かれている。日本洋画の革新に明け暮れる最中のくつろいだひとときが、留学中のグレーでの制作にも似て、平明でみずみずしく、親しみやすい秀作を育んだのかもしれない。