白馬会画評(二)

  • 都新聞
  • 1902(明治35)/10/11
  • 1
  • 展評

橋口清 の残暉と天王寺畔ハ共に青い草や木の色に厭味が多いので困るが、天王寺畔の方の空や奥深い遠くの森に日光が射し込んだ処ハ好く遣つてある、空の雲の白いのが少し平たい様だ、後庭と云ふ画の朝顔ハ干菓子の様だ、先づ五七の風景なぞハ無難の方だ。
亀山克己 の湘南の夏、之ハ筆使ひの荒いのが特色で居て色にも面白味が有るが其の筆使ひの為めに又研究を遮たげられて居る処も見える、湘南の夏は殊に欠点の多い画だ、寧ろ夏の川と題した方が好い、然し之は海岸の画だから画題が無理の様に思はれる。
郡司卯之助 十二点の中で菜圃と云ふ小品が一番無難だ、春の小川も雑木林も同じ場所でも有らうか、同じ色を用ゐて描いてあるのが、如何にも智慧の無い遣り方で感服しない、然し鶏の図ハ鶏篭から藁の描方に至るまで中々巧にやつて有つて後を向いた牝鶏の形なぞハ実に好く描て有る、其の他ハ多く間に合せ物の様なのと思はれる。
和田英作 在巴里と銘が打て有る丈でも何と無く上手相に聞こえるのだが、出品数十三点の中で佳作と思はれるのハ冬の池畔と編物とで有る前者ハ巴里近郊の冬空に朝の冷たき空気ハ薄く靄の如く満ち、止つて動かざる水ハ死せるが如く、枯れし川柳の枝ハ疎らになつて水際に立ち、なだらになつた丘の上には古き家が如何にも寂しく立て居る様を描いた物で、幽静の情ハ自ら胸に湧く様で有る、後者ハ少女が白き窓掛を通して射し込む日光を横にして毛糸を余念無く編む所で、編棒を持て相交へてゐる指先の色から調子実に申分の無い出来で有る。其他冬の日と云ふ黄ろき橋と黄ろき並木の有る水辺の画ハ遠景の描写が少し粗末な様に思ハれる、夕雲ハ空の中以上を切つて捨てると丁度好くなり相だ暮色の靄然たる兼持ハ実に巧に出来てゐる。日本に未だ之れ位夕景を好く描いたものハ無かつた様だ、静物画ハ薔薇花の莟の茎が少し太過る様だ、婦人読書ハコロムを見る様な感じがする、水車ハ只色と水の蔭の調子が好く遣つて有る、月の画ハ一番拙だ、之ハ寧ろ出さぬ方が好い位な物だ、初秋と題した画ハ木の描きこなしから草に至る迄中々巧くやつてあるが、近景の樹木の蔭と背景の石塀との調子が離れて居ないので可笑しく思はれた、極く手前の草の描法は拙だ、少年の顔、之は編物に次ぐ人物画の出来でパツと射つた顔の色なぞハ実に奇麗なものだ、半身は習作画だらうが真面目の物でハ無いらしい、其に蔭の色に亜米利加の臭味がする様だ、画家の肖像も和田的の一種の奇才を弄した迄に止つて此様云ふ物に世人は驚かない、用心が肝要である。

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