白馬会展覧会(平)

  • 如来生
  • 読売新聞
  • 1898(明治31)/10/20
  • 3
  • 展評

黒田清輝氏傑作
次に、余輩の眼晴に映じたるハ、黒田清輝氏作『寂寥』及び『乾し 物』の二幅也。こハ洵に氏が今回列品中の傑作と云ふべきものにして、前者ハ情致を以て勝り、後者ハ技工を以て採るべく、而して両般両様自ら別種の風格を備 へて、趣味津々として掬そべきハ稱すべし。
処ハまさしく逗子の海浜とも見るべきか、そハ何処にても評者 の問はんとする所にあらず、凍れる雲ハ暗澹として水天濛々、潮風寒ぶみ身にぞ染む浜辺の夕間暮、作家が独特の着色と用筆とによりて能く此の遠近の光景を描写す、其景既に惨たり。茲に 一婦人あり、頭巾眼深に肩掛の幅狭きまで纏ひて、便りなげに足投出 し、物案じ顔に打萎れたる、世に捨てられたる身にもやあらん。千緒萬緒、乱るゝ胸の思ハ憂愁の雲にとざゝれて、いはんとすれども大海原ハ茫々として際なく、弧煢零然、今ハ総身も縮み上りて、心の中までも凍りたらんか と思はるゝばかり、其風姿の凄絶酸楚なる、沈著堅靱の筆法を以て表現し来り、彼の光景と相対照し来りて満目悲 涼、坐ろに観る者として傷痕に堪へざらしむ。正に是れ
北風行蕭々、烈々入我耳、心中念故人、涙堕不能止、浮沈各異路、会合當何諧、願作東 北風、吹我入君懐、君懐常不開、賎妾當何依、思情中道絶、流止任東西(曹植、怨詩行一節)
『乾し物』の一幅に至りてハ、作家 が最も苦心の余に成りしものなるべし。其人物の活動せるハいふまでもなし、大地も燬けな んばかり灼やき渡れる夏日の光線を、従容豊富の筆を以て描写し、声光雅麗、気韻深穏、蓋し小品の上乗、是れ洵に大作也。若し夫れ規模 の小なるの故を以て、其欠点のかくれたる如くに論ずるものあらバ、是れ画と見 るの明なき者と断ぜざるべからず。
其形小なるも上品なるものハ以て之を大作 と賞すべし、其形大なるも、下品なるものハ以て之を大悪作と貶す、誰れか其非を謂はん。
此の作家が空前の大幅にして(絶後とハ云はず)しかも見事大失敗を奏したる一大悪作、亦堂々 として、室に掛らるゝを見る。何者ぞ
小督物語
是也、小督物語ハ三年越余輩の耳朶 に触れたるものなり。其大体の結構に於て、作家が如何に苦心したるかハ、一昨年 の展覧会に於て、既に業に世人の能く鑑賞せる所の者 、余輩も亦其當時親しく作家の声咳に接し、曾遊の情景 を詳にせしと共に身も亦其境に莅めるが如く、早く此の大幅の 一大傑作となりて世間に現はれ、歓笑和楽の中自他互に裨益する所 あらんと翹望したりき。然れども斯の如き大幅ハ決して一朝一夕の 能くする所に非ず、絵筆幾度か朽ち、パレツトハ幾度か刷り減され、作家が非常の大苦心と大辛酸とによりて始めて成功すべき也。果然、此の大幅ハ三ケ年余の長日月を費して、はじめて成画として今回の展覧会に於て、余輩の視線に上るを得たり。彼の二十日乃至三 十日の短期間に速成したる大々的画幅の如きとハ固より同日に論 ずべからざる也。故に余輩の今此の大幅に対する、最も慎重の態度を以て周匝■密、仔細に其全幅を精察し来る、余輩ハ実に忸怩として今茲に之を公言するに忍びざる者あり、曾て余輩が此大幅に就て、十全の成功を希望したる切愛の情の深かりし丈、更 に層一層の失望落膽を重たり、実に作家ハ第一着色の点なきに大失敗を醸したり、次に人 物と景致との余りに密接して遠近の度なきに失敗したり、更に其空気を描かんとして勉めたることの余りに甚しかりしが為、遂に全幅濛々漠々として、時間と空 間との差別なきに至れり、是れ実に此大幅の大失敗を醸したる所以にして、余輩が曩に所謂芸術の為に自縄自縛されたるもの、只其れ此等の欠所あり、遂に観る 者をして何となく不快の感を抱かしむるの種因とハ成り了はんぬ、然れども記せよ、余輩ハ徒らに嘲罵の筆を弄して、作家が数年の苦心経営を没却し、自ら快哉を絶叫 して得々たるものに非ず、此の大幅の如きハ此の作家にして、はじめて成 るを得るもの、他乳臭の手腕の何んぞ能く及ぶ所ならんや、其の全幅の脚色、即ち布置結構の如きに至りてハ、固より双手を挙げて 嘉賞せざるべからざる也。

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