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年中行事絵巻は宮廷および民間の行事を描いた60余巻に及ぶ絵巻物で平安後期に制作されましたが火事などで失われ、江戸前期の住吉如慶らによる模本によって原本の様子をうかがい知ることができます。この調書では巻10と巻5の図様を部分的に写しています。
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法隆寺金堂釈迦如来像の各部分の法量を採寸し、細部の特徴をスケッチとともに記録しています。平子は法隆寺の非再建論を提唱し、その学説はその後の研究の進展により否定されましたが、現地調査と文献研究により、当時の仏教美術研究を牽引しました。
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東京国立博物館が所蔵する鳥獣戯画断簡の調書。寸法、紙継ぎの状態、図様などが記されています。現在の高山寺所蔵の鳥獣戯画甲本のように紙継ぎに高山寺の印が捺されていないことから、田中は捺印される以前に切られたものであろう、と推測しています。
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寛永2年(1625)海津天神社(滋賀県高島市)に奉納された絵馬2面のうち1面の調書。「狩野山楽筆」という落款の記録の横に、「狩野山楽ノ署名アリしか形跡アリ」とメモされています。制作途中に署名の文字サイズが修正された可能性を検討したようです。
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尾形光琳の比較的初期の制作と考えられる八橋図の調書。図様や人物の衣の色などが軽妙な筆遣いで写されています。右上に「光琳やつはし 水野忠弘」と書かれていることから、山形藩最後の藩主である水野忠弘が所有していたものであることが考えられます。
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現在、奈良国立博物館に所蔵される繍仏の調書。かつて京都の勧修寺に所蔵されていたことから現在でも勧修寺繍帳とも呼ばれています。平子は中央左端の菩薩像の頭部や左手の部分などをスケッチし、刺繍に用いられている糸の色の種類を書き留めています。
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本作品が東京国立博物館に所蔵される以前、三井合同会社の所有であった頃の調書。絹地の状態、損傷の状態、細部の彩色や装飾について図も交えながら記録しています。繊細優美な表現であるとしながらも面貌の装飾性の強さについて指摘しています。
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聖衆来迎寺(滋賀県大津市)の障壁画調書。客殿の間取り、襖と柱の位置を記録し、各室の画題や狩野探幽、久隅守景ら画家の署名・印を書き留めています。鉛筆で筆遣いを再現した「尚信筆」という書き込みは、署名を画像として記録しているかのようです。
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中殿御会とは建保6年(1218)に宮中清涼殿でおこなわれた和歌会と管弦の集いで、その様子を参加者で歌人、似絵を得意とした藤原信実が絵巻に描いたと伝えられますが、原本は失われています。この調書は狩野養信による模本を15頁にわたり詳細に写しています。
田中は特に絵巻の奥深さに感銘を受けていたようで、絵巻の詞書と絵を詳細にノートに書き留めるだけでなく、和紙にその一部分を模写し、彩色もしています。江戸時代の模本を写しながらもその原本に描かれた鎌倉時代の絵巻の様子に思いを馳せているようです。
江戸前期(17世紀)に模写した鎌倉時代の模本を、さらに江戸後期(19世紀)に狩野養信が写したもの。中殿御会図の原本は失われていますが、多くの模本が現存しています。鎌倉時代の宮廷の様子や似絵のありようを知る手がかりとして重要視されています。
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南北朝時代の禅僧・玉畹梵芳(1348〜1424〜)は墨蘭をよく描いたことで知られています。この調書は本図が戦前に浅野家の所有であった頃に国宝に指定するかどうかを判断する際におこなわれた調査で記録されたもので、寸法や上部の自画賛などを書き留めています。
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周文筆と伝えられる山水図について、上部の賛文と印章の文字を書き写し、画面の構図と描写内容をスケッチしています。田中一松は博物館の陳列作品について数多くの調書を残しており、観察と記録によって自らの画像データベースを構築していたかのようです。
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現在では岳翁蔵丘は室町時代の水墨画壇の中心的存在であった周文の弟子として知られていますが、以前は伝記やその作品制作は詳らかではありませんでした。田中がこの調査で蔵丘筆の落款と「岳翁」の印章を確認したことから、後の研究が進展していきました。
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田中一松は九条家旧蔵の襖絵を屏風に改めた本作品を昭和2年(1927)と翌年に調査しています。昭和3年(1928)のこの調査では、人物や樹木の表現、作品の損傷状態などを詳細に観察し、画面の改変や後補部分が認められることから「伝山楽」と判断しています。
狩野山楽は、皇帝の行いを戒める帝鑑図の制作にあたって、明から将来された版本『帝鑑図説』を参照したと伝えられています。土居は《帝鑑図屏風》(現、東京国立博物館)の調査にあたり、構図などを比較するため『帝鑑図説』に収録された図を写しました。
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狩野山楽による水墨山水図の調査記録です。岩や樹、人物の描き方が山楽の作風だと判断した上で、京都・正伝寺の障壁画など過去に山楽の標準作と定めた他の例と比較しながら、頭の中のデータベースと照合するように筆法の特徴を分析しています。
虎の足先ばかりが描き留められた頁。名古屋城の虎、天球院の虎に続き、次頁には南禅寺の虎の足など、展示中の頁のほか7頁に虎の足に注目した記録が見られます。並べて見れば指の肉付き、爪の生える位置、爪の形など、画家それぞれに癖があります。
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土居が虎の足を比較したのは、署名のない障壁画の筆者を鑑定するひとつの手がかりとして、画家の筆癖、個性が出やすい細部に注目したためです。この頁では指の肉付きを強調して描き留め、「山雪ヨクフクレル」と狩野山雪の方式に近いことを記しています。
渡辺始興は江戸時代中期に京都で活躍しました。秋草が咲き乱れる道を二人の農夫が歩いています。人物はゆったりした輪郭でかたどられ、牛の体にはたらし込みの技法が用いられています。この作品と酷似する始興の農夫図が、ボストン美術館にもあります。
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渡辺始興について土居は「江戸中期の障壁画家として一流」と評しました。同じく始興が描いた農夫図と伝えられる、京都・大覚寺の杉戸絵やボストン美術館所蔵の屏風と比較できるように、人物の姿態や衣装、持物の特徴をスケッチと文字で記録しています。