ごあいさつ
博物館には数多くの美術作品が収蔵・展示されています。しかし時を経て、いつ、どこで、誰が作ったのか、わからなくなってしまった作品は少なくありません。また、こうしたことを探究する美術史も、日本では明治時代に入ってから学問として研究が行われるようになりました。この特集では、美術作品がどのように調査研究され、美術史研究が形作られてきたのかを、研究者の調査ノートと実際の作品によってご紹介します。
明治から昭和の先人たちは実際の作品をじっくりと見て、調査ノートに時代や作者、材質や技法といった基本的な情報を記録し、図様を写し、作品の特徴を文字と絵を交えて書き留めました。観察・調査に基づき、時代や作者など不明な点について検討し評価に至る、という行為を連綿と重ねてきたのです。東京文化財研究所や京都工芸繊維大学が所蔵する調査ノートから、目で見て、手で書き写すことからつづられた、日本の美術史研究の確かなあゆみを追体験してみてください。そこに記された内容は作品をより深く理解する手がかりともなります。調査ノートを通して、作品を見る大切さと楽しさを感じていただけたら幸いです。
明治から昭和の先人たちは実際の作品をじっくりと見て、調査ノートに時代や作者、材質や技法といった基本的な情報を記録し、図様を写し、作品の特徴を文字と絵を交えて書き留めました。観察・調査に基づき、時代や作者など不明な点について検討し評価に至る、という行為を連綿と重ねてきたのです。東京文化財研究所や京都工芸繊維大学が所蔵する調査ノートから、目で見て、手で書き写すことからつづられた、日本の美術史研究の確かなあゆみを追体験してみてください。そこに記された内容は作品をより深く理解する手がかりともなります。調査ノートを通して、作品を見る大切さと楽しさを感じていただけたら幸いです。
人物紹介
今泉雄作(いまいずみゆうさく 1850〜1931)
幕府の町奉行役人の子として江戸・八丁堀に生まれる。文部省や東京美術学校(現、東京藝術大学)、東京帝室博物館(現、東京国立博物館)に勤務し、岡倉天心(おかくらてんしん)とともに近代日本の美術行政を支えた。自筆の日記である『記事珠(きじしゅ)』は明治20年(1887)から大正2年(1913)にかけての鑑定や調査の記録が綴られたもので、38冊に及ぶ。
今回紹介する4者のうち、唯一、江戸時代の生まれで、そのことを示すように、調書は和紙に筆と墨で記され、和綴じ本の体裁となっている。今泉は明治10〜16年(1877〜1883)にフランスに留学し、東洋美術のコレクションで知られるエミール・ギメと親交があった。茶の湯についての造詣も深く、『記事珠』には茶道具に関する記述も多い。
今回紹介する4者のうち、唯一、江戸時代の生まれで、そのことを示すように、調書は和紙に筆と墨で記され、和綴じ本の体裁となっている。今泉は明治10〜16年(1877〜1883)にフランスに留学し、東洋美術のコレクションで知られるエミール・ギメと親交があった。茶の湯についての造詣も深く、『記事珠』には茶道具に関する記述も多い。
平子鐸嶺(ひらこたくれい 1877〜1911)
三重県津市に生まれる。本名尚(ひさし)、鐸嶺は号。東京美術学校日本画科および洋画科を卒業した後、明治36年(1903)より東京帝室博物館に勤務し、日本美術の調査研究に従事した。法隆寺非再建論を提唱するなど当時の仏教美術研究の第一線で活躍したが、肺を患い35歳で逝去した。
平子の調査ノートは、平子と親交のあった彫刻家の新海竹太郎の資料に含まれる形で平成26年(2014)に東京文化財研究所の所蔵となった。方眼紙のノートには、関西の寺院で写した仏像などのスケッチが多数含まれており、法量や細部の表現、立体感などが書き留められている。
平子の調査ノートは、平子と親交のあった彫刻家の新海竹太郎の資料に含まれる形で平成26年(2014)に東京文化財研究所の所蔵となった。方眼紙のノートには、関西の寺院で写した仏像などのスケッチが多数含まれており、法量や細部の表現、立体感などが書き留められている。
田中一松(たなかいちまつ 1895〜1983)
山形県鶴岡市に生まれる。東京帝国大学(現、東京大学)文学部美術史学科卒業後、大正13年(1924)より東京帝室博物館に勤務し、以後、半世紀以上にわたり文化財行政の中枢を担う。昭和28〜40年(1953〜65)に東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)所長を務める。特に仏画・絵巻物・水墨画についての著作が多い。
田中は文化財の指定業務をはじめ、その生涯で数万点の作品を調査しており、その調書には絵の特徴を端的に捉えるために多くのスケッチが描き添えられている。「山水図」など同名の作品は数多く存在するが、図様を記録することにより、作品の特定が可能となる。田中は震災や戦災などの非常時に作品が行方不明になった場合、捜索の手がかりとするため、図様を写していたと述懐している。
田中は文化財の指定業務をはじめ、その生涯で数万点の作品を調査しており、その調書には絵の特徴を端的に捉えるために多くのスケッチが描き添えられている。「山水図」など同名の作品は数多く存在するが、図様を記録することにより、作品の特定が可能となる。田中は震災や戦災などの非常時に作品が行方不明になった場合、捜索の手がかりとするため、図様を写していたと述懐している。
土居次義(どいつぎよし 1906〜1991)
大阪市に生まれる。第三高等学校から京都帝国大学(現、京都大学)文学部哲学科美学美術史へ進学、昭和10年(1930)より恩賜京都博物館(現、京都国立博物館)鑑査員として勤める。昭和21年(1946)同館館長。昭和24〜45年(1949〜1970)京都工芸繊維大学教授。障壁画研究を中心に、近世の諸画家について多数の論考を発表。
かつての京都近辺では確かな証拠のないまま作者が伝えられている障壁画が数多く存在していたが、土居は描写の比較分析や文献資料との照合を通して、それぞれの画家の基準作品を選定し、研究を進めた。署名のない障壁画の筆者を検討するとき、土居は細部に注目した。これは、イタリアのG.モレリ(Giovanni Morelli 1816〜91)が提唱した鑑定法に基づくもので、モレリは、画家が強く意識しない細部に癖が表れるとしていた。土居の記録には、虎の足や岩の輪郭線など、部分だけを抜き出したスケッチが多く見られる。
かつての京都近辺では確かな証拠のないまま作者が伝えられている障壁画が数多く存在していたが、土居は描写の比較分析や文献資料との照合を通して、それぞれの画家の基準作品を選定し、研究を進めた。署名のない障壁画の筆者を検討するとき、土居は細部に注目した。これは、イタリアのG.モレリ(Giovanni Morelli 1816〜91)が提唱した鑑定法に基づくもので、モレリは、画家が強く意識しない細部に癖が表れるとしていた。土居の記録には、虎の足や岩の輪郭線など、部分だけを抜き出したスケッチが多く見られる。