白馬会画評(一)

  • 澱橋生
  • 読売新聞
  • 1910(明治43)/05/28
  • 5
  • 展評

特色と後進の作品
今の白馬会研究所の生立を跡附ければ今年が廿年になるので紀念の意を含み、可成多くの後進作品を取ツたといふ結果は全場の出品数空前の六百五十七点。場の面積に制せられて陳列の狭苦しき部分はあれど、此多数の間に善きも悪きも後進界様々の傾向を窺ひ、佳作に会ふて其前途を占ふも少からぬなど中々興味が饒い此一事と参考品の頗る振ひ居る事とは正に今回の特色である
後進の作品を通じて認められるは年々其手際の進歩することと、個々芸術の自由に遊びて随意の研究を試むることであるが彼の手際の進歩といふ中には其修業の幼なきに拘はらず何か変つた色を使ふとか色の調子をうまく取るとかして画面の見た具合をよくするといふ、一種の意味を有つ手際が上手なのも多く、此種の今回の出品中には小品の風景が多い。而かも其れが徒らに先生のを真似る結果、何んの力もなく何んの個性もなき繊弱極まるものが多い。此種の手際は自己の為めに余程注意すべきことだと思ふ
正宗得三郎氏の「落椿」は落筆の奇抜なるはあれど、説明の至らざるところ一段の工夫を要する。マリーイーストレーキ氏の「うつゝ」は題意を認めざれど、上部の紗衣はよく出来て居た。山田実氏の「街」は少しく空気を欠き洗ひし様な画なれど面白く。中野営三氏の「砂浜」はカラリとした感じ好く、唯だ陸が水と並びて平た過ぎて居た。斎藤五百枝氏の「うぶけの児」は児の出来は好きも後ろが説明されず。神秘的傾向の作に親む如き観ある。
熊谷守一氏の「轢死」は只管に黒きのみにて行筆の上に面白味もなく随て陰悽の感も起らなかつた
青山熊治氏の「アイヌ」は大作なると共に其内容も見逃し難きものがある。此面白き題材の下と四五の人物を無理なく収めたる手際も感服にて手前の人物の背中や膝のごまかしはあれど、正面の老人はよく、火の映り工合も態となく出来て居た唯だ思ふように引立たざるは火の色と其影とが稍や単調なるにも依らんが、木地の侭の額縁は損であつた。折角の大作金の縁でも附けてくれたらばと残念に思つた。傍に立て仰向き居る一人は他と意味が通ぜず。少し没交渉であつた
斯波義辰氏の「神田川の夕照」色の調子よく夕照の感じも充分。山脇信離氏の「雨の夕」「午前」夫々面白き色にて感じも充分に現はれて居た。辻永氏の「雪」も佳作の一。栗原忠二氏の「永代の夕」有田四郎氏の「入日のなごり」内村吉助氏の「冬の日」桜井知足氏の「肖像」清原重一氏の「自画像」など夫々に見られた。平岡権八郎氏は今度も一二の大作を試み居るが、「僕の弟」が比較的好く「吉古氏の肖像」は氏に似合はない穏かな出来であつた(澱橋生)

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