絵画の新味

  • 小川未明
  • 二六新報
  • 1910(明治43)/06/05
  • 4
  • 展評

△白馬会と太平洋画会とを見て感じた。余り変つたものがない。其は、誰しも新しい主張ができるものでないと、一は自然に対する憧憬が乏しいからだと思つた△独り絵画のみに就て言ふべきでない。自然を描くものは、見た侭の自然を画いたからとて意味をなさぬ。倦怠と惰気とを帯びた頭や、眼や、筆で、単に色彩のみを附けたからとて其の画や、叙景が動かないのは當然である。然り動く画でなければならぬ。
△芸術家は須らく驚愕の感を以て、自然に対さなければならぬ。始めて生れて来て、始めて自然に対したといふ感じで対さなければならぬ。斯くて清新と活躍とが画面に溢れるのだ。
△此頃の私の頭は、或何等かの激しい刺激を要求してゐる。きつと画会に行つたら、清新な感が頭の疲れを癒すだらうと思つて行つて見た。而して此の二画会に入つた。始めは、一つ一つ額面の前に立て、各作家苦心の跡と其の生彩とを見んと多くの時間を費した。けれど余り眼を刺激したり、心を動かすやうなのがない何も同やうな感がして、倦怠を覚えた。
△自分には、画を見るだけの資格がないけれど若し作家が自然に対して、この驚愕の感で書かれたものであつたなら、其の画は心あるものを動かすに相違ないと思ふ。其等の多くは、自然を見たまゝ忠実に書いたものに相違ないが、一般に大膽の主張あるものに乏しい。
△私は、独り画のみでなく、総ての芸術には、大膽の主張が欲しい。新発見が欲しい。独特の研究が欲しい。若しかゝる作者があつたなら、よしや其の作品は未成品のものであつても、私は、平凡な完全のものより、此の方を取る。
△白馬会では、正宗得三郎君の「落椿」は面白い。落ちてゐる花が動いてゐる。上から上からと落ち盛つた跡が見える。強烈な色彩に生気がある。外光に晒らされた葉の輝きが今少し強くてもよかつた。季氏の作風も之に似てゐるものがある。私は、氏の静物が三品の中最も宜いと思つた。
△熊谷守一氏の「轢死」には惨劇が経つて女が静かに夢み、夜は柔かに、沈黙に葬つて行く有様が現はれてゐる。遠くの森の姿が宜い。此の画と並んだ高田正雄氏の「入江」も私は好きだ。夢幻的の味ひが捨て難い。現実の裏に開いた神秘の眼といふやうなものが、此の二つの作品に覗はれる。
△藤島武二氏の「滞欧スケツチ」は会場の単調を破つてゐると思つた。私は、白馬会中の傑作と思つたのは、中沢弘光氏の「斜陽」であると思つた。光線が射し来つて眼を眩ずる思ひがする。一本の木立に微動する光線は真に燃てると思つた。
△画評と言はぬ。私は、たゞ自分の好きなのを見て歩いた。而して穏健なものより、今開いて新しい試みをするものゝ努力を見たいと思つた。たとひ色彩が生で光線が粗雑でも、大膽な主張が出てゐる作に対すると気持が宜い。最初、マネーが総ての物象を太陽に晒すといふ大膽な主張は、無謀として笑はれた。以後三十年を出ずして印象派の絵画は暴風の如くサロンを襲つた。
△独り絵画のみでない。総べて芸術は大膽な主張によつて、常に新しい道が開けて行く。(五月二十七日)

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