白馬会展覧会

  • 木仏
  • 報知新聞
  • 1909(明治42)/04/27
  • 4
  • 展評

上野公園の展覧会場は今年は発明品展覧会に横領せ られてゐるので白馬会は赤坂溜池三界の三会堂で寂しげに展覧会を 開いてゐる、野次馬や傍杖的見物人が跋扈してゐないので、心静かに観覧することの出来るのは有り難い。
全会場を威圧してゐる一面の画は参考品 のコラン筆「弾手」であらう、これは岩崎男の所蔵品で、コランが二十余年前の作 、未だ至極クラシツクの真面目な手法を行つてゐる時代のものだ、モデルが伊太利の女丈けに何となくラフワエルやチゝアンなどに似てゐる所がある、人を魅するやうな顔面の表情、柔かな自然的な手や指先の具合は、落付いた色調 の裡に浮動してゐる、何しても大家は大家で此画を見ると他の作品は モウ見られない、
三宅克巳君の水彩画は愈々出でゝ愈々型に這入つて、死画に成つてしまつた、又た写生に不忠実な点の随所に現はれてゐるのは遺憾である、中沢弘光君の修善寺温泉のスケツチは中々面白い出来であるが、同君の 「日ざかり」は夏の日中の心持を現はしたもので、女の手や何かに難は あるが、恐らくは場中有数の佳作であらう、又「首夏」も色調の落付い た、深韻のあるよい画だと思つた。
本間国雄君の「冬の月」は中々真面目に出来 てゐるが、空と遠山が悪い、久保川貞平君の静物「鳥」と「魚」とは鳥 の方がよい、魚はチト腐敗に傾いてゐるやうに見える、李岸君の「停琴」は女の 腰が落付かないのと、ピアノに奥行のないとは非常な欠点であるが、清国人として は一寸出来のよい方だらう、小林真二君の「斜陽りも面白く山の斜面や水の具合も中々善く出来てゐる、併し砂利が水泡のやうに見えた り、山の遠い処が平つたく見えるのは、何うも説明が足りないと云はざるを得 ない、安藤仲太郎君の「夕桜」は全くの失敗、中野営三君の三枚は「漁村 が一番よく「水上」が最もマズい、渡辺省三君の「白壁」は平岡君の「裏」 と同じ景を写したものだらうが、遥かに善い出来で、白壁の映じてゐる水もよ く、乾してある大根、薄赤い格子、何れも色の配合がよく出来てゐる、只向 うの方の屋根と山とが今少し遠く描いてもらいたかつた、此の画の如きは蓋し写生に忠実でゴマカシが無いから成功したのだ。
岡田三郎助君の肖像習作三枚、何れも出来は悪くはないが、右方のが一番よく中央のが其の次 ぎと思はれる、右方の女の背影や何かはよいけれども、膝が長くて腰が落 付かない、中央の女は右の手が不自然で招き猫の様に見える、 九里四郎君の「跪ける女」は人物画中の佳品だが女が如何にも肉感的で洋妾か何かの様に見へる、これは敷物や衣服や壁紙に赤い 色を多く使用した爲めだらう、又た鏡の見當が少し誤つてゐる、掌の白粉は画面に色彩の単調を破る好配合だが、今少し多く明かにやれば善かつたと思ふがどうだらう、栗原忠二君の「月島の夕」は実際の 景では無く、ターナーなどの遣口に出たもので、中々珍らしい出来だが、未だ習熟の足りない青年には寧ろ禁物でそれよりも今の中に忠実に写生を 怠らないことを希望する、而して愈々腕が出来た後ち此の方面に出づ 可きである。
出口清三郎君のは「セイヌ河畔」が善い方、跡見泰君の「冬の日」は色彩に艶がなくて全体が影のやう、「稲村」の方が空の具合なども大に 善い、山本森之助君の風景画は何れも結構だが、「雲」は軽く且つ密に 中々ウマイ「あしたか山」の遠望も軽妙明快で面白い、「多摩川の上流 」は水が悪いし、色もクスンでゐる、一番落ちる様である、最後に黒田清輝君、何れも小さな花卉と風景ばかりで、取り出でゝ批評する程のものも無 い、望むらくは黒田君のみならず会員の先輩からして今少し念入りの大作を出してもらい度い(木仏)

前の記事
次の記事
to page top