白馬会の回顧(三)

  • 黒田清輝(談)
  • 都新聞
  • 1905(明治38)/11/01
  • 1

△白馬会の原由
それで如何してもマア色の薄い濃いと云ふ事は其国柄にも拠るし其人にも拠るし何処が佳いと云ふ事はない話なんです、其人の 好みと云ふ点があるんですから、それですけれども何うしても少し自然の研究と云ふもの が足りないと云ふ事を非常に感じたんですね、それで私共は先づ人の事は 兎も角も自分丈けハ絵を画くと云ふ事に就いてハ境遇が面白くなく てハ可けない、それで研究すると云ふ事に就いてハ第一に自然と首つ引きでなくて ハ可けない、是から幾らか技術の発達を計るのにハ友達の間に遠慮があつては可けない、それ丈けを必要と心得たのです、それで此時機にあつて共にやらうと云 ふ人が集つたのが即ち白馬会の因となつたので白馬会の展覧会と云ふのハ即ち其結果であるのです
△種々違つた画風
それで能く此事情が判らない人ハ或ハ画風に一種の僻があつて其僻を持つた人 などが寄つたと云ふものがあるか判りませんけれども画風があつて寄合つたんぢやないんです、それですから会員 の中にも皆種々違つた画風の人も交つて居りますから言はゞ黒みを沢山使つて私共が前に感じて古風だと思つたのをやる人もありますし 又ハ如其でない人もあります、それから画題の選み方なども不幸にして死んだ今泉 と云ふ男などハポンチのやうなものを題にして画いた男なんです、又会員の中 でハ全で絵など画かない人もありまして唯だ悪口を云ふ人もあるんです、其悪口と云ふのハ何ですね、友達の中に勝手な事を云ふのなんですね、如其いふ のハ非常に益友なんですね
△堕落しない予防策
それで先づ白馬会と云ふ 一つの小さいなりにも団体見たやうなものが出来て今の主義で推し移つて行 くに就いてハ平常友達を訪ね彼れ是れ云ふのハ出来ないのですから一の研究場所を拵へて平常幾らか研究もする、其研究と云ふのハ重に人体に就 いての研究なんです、それが私共も非常にむつかしい事に思つたと云ふのハ一葉の油画と云ふが人間を画くと云ふ事に研究が足らないでハないかと云ふ感 じがあつたのと元来日本の画に是が欠けて居たのと油画で人間の絵 を画いて少し形が出来ると満足すると云ふ風がありますから其点に落ち込 んで行かない予防策であつたんです、それで其左様いふ所が出来たものですから書生 の稽古したいと云ふ者があつて同じ事ですから研究すると云ふ事にしたのですね、初 めハ天真道場と云ふ名を附けたのです、マア自然を基にしてやると云ふので始 めたのです、それが今日になつて漸次二ケ所も三ケ所もやるやうになつてますけれども今日でハ元研究 しやうと云つたものハ今ハ監督なり指図なりをする丈けに止つて自分の研 究と云う事ハマアなくなつて了つたんです、今の所ぢや研究所と云ふものと白 馬会と云ふものとハ別物で会員の暢気な寄合ハ牛丼会の方でやりまして研究の方ハ研究所へ任して了つたんです(をはり)
黒田氏の談は之に盡きざれども 本紙発行停止中、白馬会は既に閉会せしを以て茲に尾を結ぶ事とす(一記者)

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