白馬会と紫玉会

  • T、K、子
  • 読売新聞
  • 1903(明治36)/09/26
  • 1
  • 展評

この日曜を雨に閉されて、書斎の篭城も曲の無い話と、こゝに白馬会を見に出かけた。雨雲ハ低う、少し暗いが、絵を見るにハ丁度いゝ天気で、これがあんまり照り過ぎて、窓から白い光線がさし込むと、却て色彩も破壊してしまふので、十分な観照ハ覚束ない。
入口の門ハ今普請中で、足場がまだ掛つてゐる。今日ハ見物が極めて稀で、入場券の売場にハ人さへない。中へ入つて先づ異つたのハ、今度ハ額面ごとに銘を打つてない、たゞ室隅に画題と筆者とを表はした額が置いてあるのみである。これハ頗る面白い方法で、対観者を高く買つた仕方、随て絵を解さない者ハ、何の画だか分らない、否それが画題を見て初めて分るやうな人ハ、まづ縁の遠い方である、そういふ人にハ見て貰つても、貰はないでも同じことだ。
一渡り見たが、一言すれバこの前より寂寥の感がある、唯門を出ても記憶に存してゐたのハ、ミレーの収穫を写した絵で、平和な生々な面影が再現してくる。其隣りのハダイアナか、僕ハ知らないが、ちつとも神々しい情が起らない、三日月を手にした具合、何となく無理で、情を誣ゐて描いたやうだ。お稽古のもあつたが、お師匠さんのなりが拙い、無論この女ハ黒人でハないが、なんだか女学生上りの、三段論法でも擔ぎ出しさうな人物で、苟も撥をとつた姉さんと思はれない。この外に新月の下、海岸で笛を吹いてゐるのがあつたが、全体があんまり黒過ぎて、月があんまり際立つて貼り付けたやうだ。しかしいろいろ面白い作や、意匠を凝らした欧米の広告画が例の如くあるから、一目塵外の楽を享けに行つて見給へ。
さて次に、序といつてハ、会主の熱誠に対して済まないが、紫玉会へも入つて見た、秋の絵が大分あつたが、十円と価額をつけたのが、一番秋らしい感じがした。こゝにもラフアエルの美人園丁を真似た図があつたが、其拙劣見るに足りない。
要するに白馬会も、まだこれつきりでハあるまい、定めし傑作が後から続々出るのだらう、新聞などでハ既に出揃つたとあるが、これハ願はくば虚報でありたい。

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