秋期美術展覧会(一)

  • 東京朝日新聞
  • 1903(明治36)/10/20
  • 3
  • 展評

白馬会及其他の洋画展覧会
白馬会今回の陳列法は例年と異りて各人の作品を一括せず雑然混淆の体裁を以てし、又別に目録を印刷せず各室毎に番号に依つて対照すべき名簿を揚げたるは観覧上頗る不便を感ぜしめたり、作品総数は前回に劣らざるも特記すべき価値あるもの寧ろ多からず、唯さすがに新帰朝者たる和田氏の製作中には比較的優秀なるものなきにあらず、全体に於て評すれば此会の通弊たる色調を薄くし且つ色種を制限するの一事は例に依つて改まらず、是れ畢竟会員諸氏が自ら写実を唱道するにも拘はらず依然一二頭領の為す所を規傚して未だ自然に対する忠実なるものゝ真義を会得せざるに因るなるべし。
作品中著しきものゝみを取り出でゝ所見の侭を記さむに、和田氏の作に在つて、思郷は前景部に若干の失敗あると并に姿態の未だ能く画題に適はざるとの欠点あるは覆ふべからざるも、描写の頗る熱心なる結果一般に沈着して些の覇気を有せざるは賞すべき点なり、此画の先年巴里サロンの出陳及第したるも然らく此点を以てなるべしと想像せらる、又同氏肖像画の二品は黒田氏の菊池前文相の像に比して一段なりと覚ゆ、夕暮の三保は雲の反映に多分の苦心を費されたる如きも構図と距離とに難あるは遺憾なり、少女と題するは背景稍や可なるも人物の描写未だ確実ならず、岡田氏は裸体画二品あり、一は小にして全身を描き一は花の香と題して二婦人の半裸にして立てるなり、前者は殆ど無意味の作にして後者は寧ろ欠点多き作なり、欠点とは例へば手指の権衡を失せると両頭首の背部の美に適せざるが如き其甚しきものなり、京の春雨及皷の二は艶麗を主としたるものならむが孰れも室内の意義を失せるは不可なり。特別室には前述の岡田氏の花の香と黒田氏の春と秋及びエチユード、松方伯所蔵の外人作の裸婦人と湯浅氏の画室とあり、黒田氏の春は背景に於て秋の方より劣れり、人物は両者共に細心の描写と見るを得ず、之を先年巴里に於て描くかれしと云ふ少婦の作に比すれば甚しく退化の痕跡を認むべきにあらずや、エチユードの方却つて真面目なるを覚ゆ、外人作の裸婦人は悪作なり、湯浅氏の画室は形状色調共に整はず。
藤島氏は先年の『天平の面影』以来一種の研究的態度を示されたるは多とすべけれど其の果して成効すべきや否やは未だ容易に測り難し、今回の諧音と題するもの亦正倉院御物の楽器花瓶などを用ひたるが実は骨董的なるのみにして人をして画の真意を知るに苦ましむるなきか、局所に就て言はゞ施彩の余りに無造作なる為め人物の平板に見ゆるは最も不可なり、北氏の添乳と吹笛とは他の幾多作品と異りて意匠上に工夫を用ひたるは喜ぶべし、然れども添乳は概して野卑の趣を免れざると且つ男子の描写の重きに過ぎたるは惜むべし、吹笛に至つては更に一層欠点多し。
水彩画にては三宅、中沢両氏の作大多数を占む、三宅氏のは例の如く一種の偏癖あり且つ単調の感を免れず、吾人は寧ろ中沢氏の細心なる研究に同情せざる能はず、其の東海道五十三次の如き努めたるものと謂ふべし。
参考品としての出品に就ては、白人ロドルフウイツマンの素画小品ながら趣味深し、伊人バシエの騎駱の一群と風景と共に見るべし、ラフエル、コランの樹蔭例に依つて別條なし、プヲール、ルノアールの風俗画二品版下画として用ふるに足る。仏人ブーダンの海岸スケッチ縦横の筆悪作ならざるも唯参考として見るべし、英人ブラングヰンの蜜柑収獲は装飾的描法にして且真趣を得たり、肖像も亦同法にして味あり、一種の天才たるや争ふべからず、ロザボヌールの獅子のスケツチ亦面白きものなり。
紫瀾会習作展覧会及紫玉会に就て一言せむに、紫瀾会は今回を以て初会となし、磯部忠一、石井満吉、石川欽一郎外数氏是が会員たり、陳列作品は極めて少数にして又注目すべきものもなけれど、兎に角着実なる研究を示して弘く世の批評を求めむとの主意は賛すべし、紫玉会は玉置昭進氏の独舞台なるが、氏の■■■■(判読不能)■■■■多量を欲するは寧ろ奇と称するの外なからむ、殊に今回は場内日本画の劣品などをも陳して即売をなすなど其勧工場的光景は最も不感服なりとす。

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