今秋の美術界(上)

  • 螽湖生
  • 萬朝報
  • 1902(明治35)/10/17
  • 1
  • 展評

△これも太平の兆候にやあらん。上野に開かれつゝある白馬会及び日本美術協会の展覧会、谷中日本美術院の絵画共進会の賑はしさ、看覧の客日に千を以て数へられ前日曜日の如き白馬会の門前ハ市をなして押合ふばかりの群集、浅草奥山の看せ物の前に見るが如き光景を此処に見たり
△絵画展覧会の年を追ふて盛になり行くハ誠に著るき現象にて。看覧の客の季節毎に増加するハ、邦人の間に美の教育なるものが漸く普及せんとするを示すものか、日に千を以て数ふる見物人中十の八九ハ奥山の看せ物を見る心得を以て行く者なることハ明かなりとハいへ、彼等と雖も多くを見るうちにハ眼自ら肥へ心自ら真の美を解するに至るべき望なしといふべからず、美術界の繁昌賀すべきに似たり
△邦人の間に美術の嗜好の高まりつゝある事実を見るべき猶一つの現象ハ日本美術院の地方に於ける展覧会の成功なり、企業心の富みて其手腕尋常ならざる岡倉覚三氏ハ先年来東京の展覧会を終りたる後売残りの絵画を各地方に持ち巡らしめて、其の地方の画家の所作と併せて展覧会を開くことを始めたるに、一の会を開くの費用千円にも達すといふなるを、大抵の所に於て得る所費す所を償ふて余りありと聞くハ絵画流行の熱地方に迄も伝はりたる事を示すものならずや
△其好尚のいまだ幼稚の域にあるハ否み難しとハいへ、邦人の美術に対する観念の十年前のそれに比すれバ大なる進歩を為したる事ハ明かなり、されバ此時に際して此進歩に更に一層の速度を加へしむるの方法の何人か力ある篤志家によりて立てらるゝこと願はしきかな
△吾人ハ此方法の一として宮内省の保護の下にか若くハ篤志の富豪の手によりてか巴里のサロンの如き一の大なる美術展覧室の上野か又ハ芝かに設立せられんことを切望する者なり、斯の如き企ての実行ハ邦人の美育の為めにも亦美術家の進歩の為めにも頗る切要なるなり
其理由如何となれバ、もしも斯くの如きサロンの東京にあるありてこゝに常設の美術展覧会ありとせバ美に飢ゑたる公衆ハ何時にてもこゝに来りて最も高尚なる慰楽に半日の閑を費すことを得べく、其精神的に得る所ハ頗る多からん
△更に斯の如きサロンハ美術家の進歩を促すに与りて大なる力あるべし、今の如く洋画家和画家互に相離隔して、更にまた洋画家のうちにもはた和画家のうちにも各々其流派により若くハ情実によりて孤立し、互に嫉妬を以て見、相罵り相排擠して、展覧会を開くに當りても一に自派の所作を羅列し頑として他を容れず、宛ら封建割拠の観あるハ、決して美術の進歩を促すべき途に非ず、もしも一のサロン設立せられて、こゝにハ流派の如何を問はず、和洋の区別を分たず、更に筆者の名あるとなきとを問はず真に価値ある作品のみを最も厳正公平なる眼を以て審査したる後陳列を許すことゝせバ、美術家の間に競争の心起りて研究琢磨の志も生ずべく、従て我美術の進歩を促すこと頗る大なるものあらん

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