白馬会画評(六)

  • 都新聞
  • 1902(明治35)/10/16
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  • 展評

安藤仲太郎 の夕陽、色殊に厭味多く、波打際なぞハ何様にかなり相なものだ、小品の御殿場ハ草の色が生だ、幽静が先づ佳作。
藤島武二 の天平時代の面影、パノー、デコラチーブの半隻、上代の婦人が箜篌を抱いて立つ姿、穏やかな中に何処か神秘的の想像を思ひ浮ばせる画で新体詩人なぞが喜び相な物だ、然し折角苦心の色もベツキの金に奪はれて極めて弱く見えるのハ残念な次第だ、顔なぞハ習作画の方が寧ろ好い位だ、必竟之ハ此の様な物を描くのにハ日本に参考品が無いのと顔料の研究が足り無い故に此様言ふ様になつたのであらう、小品でハ泊舟、潮汲なぞの色ハ最も好い。
岡田三郎助 新帰朝者と云ふので仏国土産の裸体四枚、其他出品二十三点、先ハ場中の呼物で有らう、裸体の中でハ盛夏と題した薄い明るい横向きの画が最も好い其に次で読書、之ハ如何に外国人でも足が少し長過はしまいかと思ふので有が色の好い事ハ眼もさめる様だ。少婦ハ其に次での作で初夏と云ふ長い花を摘む画ハ調子や色や形や申分ハ無いが何様も面白味が一番少ない、老爺ハ哲学者めいた白髪の老人が手に紙を持て古き丸柱の破片に片足をかけた図で何となく深い詩趣の有る画だ。
黒田清輝 の海ハ二六六が最も好い、怒涛の逆巻く様、岩に激する様、寄せ来る波の波頭が風に吹き散らされる瞬間の光景を軽い大きな筆で無雑作に描きこなして有つて其の上何様して出したか解らぬ様な好い色が有る、其他二六九の海も好く遣つてある。
山本芳翠 の肖像は中々正確した物だ。
コラン の肖像は二十年前の作だ相だが大きな筆で無雑作に描て有て、其が少しも堅く見えぬのハ豪い物だ。
中沢弘光 の箱根の山篭駕、全体に好くまとまつた手丈夫な画だ、人物が一番巧くベツキの風景は其よりも落ちる。百合の花なぞハ遠くに有る可き筈の物が、近くに飛出して来て居る。女ハ腰掛けてゐる方ハ好いが立てゐる方が少し説明が足り無いので丈が低く見える。
矢崎千代治 の点紅ハ商売向きの物で展覧会にハ向かない物だ、馬入川の画が二枚とも佳作だ。
磯野吉雄 の習作人物ハ岡田の画の前に有る丈人の眼に付くし其丈又一割の損が有る、日本人だからとハ言へ色が汚ないので厭な気持がする然し調子ハ好くいつてゐる。夕と云ふ題の風景ハ紫色の厭な色が少し眼にさはる計りで先づ無難の方だ。
三宅克己 の水彩画ハ多く巴里滞在中の物で帰朝後の作も二三枚有る様で有るが、先づポン、ジユ、カルーゼルと云ふのが一番面白い青黒い橋の下にハ鮮やかな水が流れて空にハ雲が湧いて居るが最も好いのハ水で、空ハ一番拙だ、セイヌ河畔冬の午後と云ふ画ハ道路の石の間が空き過ぎて居て人がごろごろ落ち相に思はれる、月の出ハ空の気持ちハ好いが何と無く暗い色が汚れてゐる様だ、今年の作にハ一体去年一昨年なぞの様に饂飩の様な描法の無いのハ何より嬉しいが之も漫遊のお蔭で有らう。
長原孝太郎 の船頭の妻ハ木炭画としてハ描法に奇を弄した処も無く非常に真面目に出来て居るが、形の上から云へバ手を上げた風が如何にも故意らしい所が有つて踏み締めて支へてゐる左の足が少し短かい様で有る、其に舟が女の立てゐる物としてハ形が少し手前に曲んでゐる。石版画の停車場の夜ハ背に負はれてゐる子供の頭が小さい様だ。

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