学校教育の上に於いては、少年の智識のまださまで発達しない中に、悪徳の人事を見聞させるこ とは、多少危険の処があるかも知れず、また社会教育の上に於いては、たとひ成人でも智識の足りないものに、悪徳の事を見 聞させるのは、同じく恐ろしい結果を招くかも知れない。そこで、古来の道義家は、智識の程度 の低い人、殊には少年に、なるたけ是等の悪徳の人事を見聞させまい、なるたけ嘉言を聞かせ美行を見せて、善を 以て習性とならしめやうとはするのである。
然し善くこれを考へて見ると、かくの如き教育の方針なり目的なり方法なりは、畢竟す るに、極めて卑怯千萬なるものであつて、この千変萬化錯綜聊関極まりなき人間の因果の諸法に向ひて、某の部面にだけ強ひて 耳を閉ぢ目を塞がせ、人心の本然の霊能を賊し、人智の甚深の悟性を暗くして、人をして柔弱 なる萌やし独活の如き擔板漢とならしめるものではあるまいか。かくの如き卑怯なる道義風教に萌やさ れた人は、なるほど善人にはなるであらうけれども、その善性や甚だ薄弱なものであつて、未だ悪徳の事をも知り悉くし たる覚悟の善性でないから、たとひ習が性とはなつても、決して不退転の善人とはなりにくい。たとへば善い事づくめで育てられた人 も、始めて淫楽の境に遇ひては、多く荒蕩を免れざるが如きものではないか。
たとひ道義の束縛を以て、成育の何時 までかの間耳目を悪徳に蔽ふたとて、また世の芸術を覊絆して一切悪徳の事を製作に現は さしめなからうとも人間世界の因果の萬法には、善と悪と非善非悪即ち無記との諸業が、年が年中、日がな一日として到る処に作され行はれて、現行しつゝあらざることは無いからして、一生の間檻の中へでも入れて置かぬ限りは、何時までも必ず悪徳 の事を見聞し非善の境にも触接せしめないといふわけには、決して行かない。而も人間世界の萬法は、善と悪と無記との業が、何 れも當分位に現行し、或は寧ろ善業よりは悪業の方が多いかも知れぬ位であるからして、なほさらのこと、善境ばかりに住することは出来な い。
まして悪徳の事には、眼前の楽欲を適悦せしめるものが多いからして、多くその事に接し屡々その境に遇へるものでゞもなければ、こゝに於 いて克己制欲を全うすることがむづかしく、少年の間、前の薄弱なる道義の檻の中に育てられて、萌やしの善 人となつた連中は、こゝに至りて彼の未覚の善性が、終に楽欲の荒れ馬を制御する韃の力弱くて、多くはこれを 荒蕩の境に奔逸せしめてしまふ。多年の教育、嗚呼果して何の効かあるといひたいやうなものだ。
萌やし教育を 以て道義風教を維持する方法の極致となすものは、蓋しかくの如き教育を絶対無量に普及 せしめて、世界の民をして盡くその謂ふ所の善人と化しおほせたならば、世には一法も悪徳の事の無いやうになるであらうと理想して、而してこ れが実現に力めるのであらう。嗚呼果して能く然ることを得るや否や、河心改修の工事は、終に能く黄河 をして清冽の泉となすことを得んや否や。