芸苑饒舌 二十六 美術と道義(其一)

  • 無記庵
  • 東京日日新聞
  • 1901(明治34)/10/17
  • 7

美術と道義との関係の問題は、時々持あがつて来て、何時になつても乾る瀬がない。このごろもちらほら新聞や雑誌に見えて居るし、彫工会の第十六回競技会へ美術学校から参考品として出したVenusの裸像 を風俗取締の官吏から撤去を勧めたとかいふ噂も聞いた。今度の白馬会の展覧会にも、黒田清輝画伯の巴 里で描いて来たとかいふ裸女図が出る筈であるが、これも引込まされはせぬかと案じられる。そこでまた少しく例の 差出口に美術と道義との関係問題の一隅でも話して見やうと思ふ。
予の如きは一体、有因果美の芸術としての裸像だの、肉慾の発動に衣を被せた所謂恋愛とやらの小説などは、一向好まぬ方では あるが、芸術が道義の境を犯すものは、たゞ独り猥褻だの淫蕩だのといふことばかりではなくて、卑 劣とか残忍とか詐欺とか暴慢とかいふやうな、あらゆる悪徳不倫のことも、善業無記業と共にみな盡 く能く芸術の材となるべきものであつて、従ひてみな道義風教を犯すといへば謂ふことの出来るものであるからして、芸 術の道義に対する触犯は、たゞ淫猥のことばかりを問題として論ずべきものではあるまいと考へるに由りて、 こゝにあらゆる謂う所の悪徳不倫を総摂して、以て其関係を調べて見たいと思ふ。芸術の材を悪徳の人事に取る ことを恐れるのは、元来教育の考へから起つて来ることであつて、学校上教育と社会上教育との別こそあれ、何 れにしても風教を破る力がある、悪徳を増長させるといふので、これを恐れるのに過ぎない。
そこで、芸術と道義 との問題は、やがて芸術と教育との関係になつて来る。さてその教育といふものゝ目的なり方法なりが、今までの やうなもので果して完全なものであるならば、どうしても芸術のこれを触犯することをば、法律を以てしてなりとも禁制せねば、教育の効果は、必ずその幾分かを芸術の為に破られるに違ひないからして、芸術家もこれには是非とも 服従せねばならぬのが、社会の一分子たる人としての義務であると治定せねばならぬ。若しこれに従はぬ奴等は、画かきでも小説 家でも片はしから処罰して、その製作権を剥奪しても差支はない。これまでの芸術家が、その作るところのも のゝ、社会の風教を害するといふことを、内心に認定承知して居ながら、而も敢てこれを廃せ ざるに至りては、その卑屈陋劣や誠に言ふに忍びざるものである。
また美学者などが、悪徳の事を以て材としたる芸術品の、風教を害すべきことを一面には認定しながら、一面には無上に芸術の独立を唱へて、芸術はたゞ美を作 し出すことを究竟の目的とする、その善を犯すや否やは顧みるところでない、芸術は教育の具となりその奴隷として存する ものでない苟も能く美を作しさへすれば、風教を害するや否やは我不関焉と捨鉢をきめ込み、或はまた悪徳の挑発を目的として 作りさへせずば、美を成す目的を以てその材として悪徳の事を出すは可なりといふやうにずるく逃げるなど は、何れもみな道義風教の賊として擯斥せねばならぬ外道である。
ところが、予はその所謂教育といふものゝ、こ れまでの目的なり方法なりに申し分があるので、かくの如き芸術と道義との隔歴を生じて、どこまで行いても会融の出来 ぬのであると考へる。

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