白馬会展覧会(上)

  • 東京日日新聞
  • 1899(明治32)/11/09
  • 4
  • 展評

は目下上野公園元博覧会第五号館跡に開かれつゝあつて大ぶ評判であるゆゑ、晩 蒔ながら一寸素人評を試みて見ようと思ふ、出品は三百七十何点といふのであるから迚 も一々善悪をいふことは出来ぬが、順番を追て其重もなるものばかりに付ていへばザツト下の如し
△磯野吉雄の「たそがれの萩」は氏の作品中の上乗といふて宜しい、但し石の落付かぬは 聊か憾みに思はれる、今の進歩を以て益々進まれたら前途は頼母しい
△塩見競 の「根岸の残照」是れも暫くの間に腕を上げられた、空と森の色工合は作家の苦心した所と思 ふ、しかしマダ舞台習れぬ所為か安排の撰び方が今一呼吸ではないか
△北蓮蔵の「遺児」は兎も角アレ 丈けの活きものを集めて大組立を目論んだは感心、人物の骨付きも悪くはないが顔が生人形 に似て居るとの悪くちもある、但し空や森の色はたしかに失敗である、此外作家特得の篦書きの小景色は目新らしい、更に工風を積まれたら一風変つた画が出来るであらうと思ふ
△小林萬吾の「冬野」「漁浦の晩景」「夕の森」は 氏の出品二十余点の中の佳作といふて宜しい、殊に「夕の森」は評者が見て満足する所である
△小代為重の 「品川の台場」是れは先頃の鑑査に及第して巴里へ出すことになつてある「投網」の下た画と聞くが、此小さな方が彼の大き なものよりは寧ろ優つて居る、第一台場の工合もよく水の色もよく又網打に付ての非難のない丈けも徳 である
△中丸廉一の「磯辺」はよし、一昨年頃氏は専心コランのスケツチに学ぶ所ありと聞いたが果 して其験が此作の艸や土に現はれて居るは争はれぬもの今日でも故大人より腕は上なり
△白瀧幾之助の作中殊に人の注目を引くはやはり「蓄音器」であらう、聴具を耳にあてたる女児と前に 座せる男児は甚だ佳し、正面の女児は稍々顔面の肉をそがれたるかの感がある
△三宅克己の水彩画は館 中で独り異彩を放つて居る、英米の景色、外国老婦人の肖像など感服するものが少くない、 然るに日本の景色は比較的に概して上出来といひ苦いは自然の景色が違ふ為めでもあらう か
△山下森之助の「熱沙の山」は氏が近日の進歩を実際に示したものである、評者は此佳作を 見て愈ゝ氏の前途の多望なることを喜ぶ

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