白馬会展覧会批評(二)

  • △△生
  • 時事新報
  • 1899(明治32)/11/22
  • 11
  • 展評

△白瀧幾之助筆『蓄音器』 此人の従来の作品から見ると何様描きさうなもので北氏の『遺児』に亜ぐ入念の作だ、仕組からいふも可なりの方で無邪気の意味は大方表はれて居るら しい、併し悪い方の側をいふと画面が何となく薄ぺらに見えるのは惜しいものだ、これも色彩の関係 からきた結果であらうがその外にまた個々の位置が少しく窮屈といふことも一ツの原因 に相違ない、ちよいと見て■らないやうな感じの起るのは即ち位置の窮屈なるが為めで、例へば下向 きになツて居る少女と隣りの人を窺ふて居る少女とは十分その心持を表はして居るが、左の男の児が空を仰向いて居るやうなると起上ツて聞いてゐる少女が苦笑ひをして他の事でも考へて居るや うなるとは何うも照応が宜しくない、此処が欠点といへば欠点かと思ふのだ、また色の方からいふも何と なく淋しげなる情が出てゐるのは受取れない、この画などは意義の上からして至極温かい方のも のだから色も十分その方に向けて貰ひたいのだ、夫れから男の児の衣物の色が素人眼には紫へ脂色でも打込むだやうに思はれて些と黒過ぎはしないか、その所為かして他の物が蹴推されて居るやう に見える、夫れから少女の顔の色も孰れも黄ばむだ青味が勝過ぎはしないか、北氏の『遺児』の中にある人物の色と大差なしでは少しく釣合が取れないかと思ふ、もう一ツ云へば庭の樹などは何だか物足らないやうで 今一工夫して欲しかツた、併しかう云つて仕舞へば一も二もない画のやうで酷過ぎるけれども無論賞揚すべき点も沢山あるのだ、第一この人が自分の学ぶところに飽くまで忠実なると夫れに相応 しき勇気のあるとは何時も感服するところで、会毎に勉めて大作を出ださるゝは評者なども斯道の為めに謝さなければならないと思ふ、夫れからこの画なども運筆の点からいへば北氏の『遺児』などよりは頗る正確なるもので、物質の表現の法も比較的にはこツちの方が立越えて居ると云はなければならない
△三宅克巳筆『水彩画』 この人の出品は都合四十余枚あつてその内鑑査 に當ツたものが四枚ある、画題は一を『千曲川の初春』といひ二を『信州小諸附近の景』といひ三を『水に映ずる森』といひ四を『米国ニユーヘブンの秋』といふ、水彩画 として立つ人の作丈あツて総ての調子も完全したものが多い、中にも『ニユーヘブンの秋』と題するの は特に立優ツて居るやうに見えた、去りながら海外にて作ツたものと近頃の作品とを比較す れば概して前の方が勝れて居るのは遺憾と云はなければならぬ、併し何れも■味といひ色といひ能く整ふてゐて酷評を受ける方のものではない、日本の水彩画として先づ立派なものだらう
△山本森之助筆『柳塘』 こ れも前の鑑査会に出したものだが評者などには一向旨味が分らない、同人筆『熱沙の山』は得 意のものかは知らぬが画題を読むで初めて会得した位で熱沙といふ感じは覚束ない、左の海 は後から無理に附合したものではないか、少しく地平線が低いと思ふは僻目にや
△岡田三郎助筆『肖像』 此派の■■、仏国から態々寄越したものだらう、一寸と■■出来て居るが取立て言ふ程のものではない
△藤嶋武二筆『蝦夷菊』 今度はスケツチが十四五枚あるのみだが、花と題するこの画が一番善い出来らしい
△中村勝次郎筆『暮春 』 この人の作も今度は割合に善くない、暮春が鑑査に當ツたのは仕合せのことだ
△黒田清輝筆『ナチ ユールモルト』 流石にこの派の鎮袖、洋画界にピカピカと光ツて居る丈あツて見事なものだ、比較をすれば静物画としての河村清雄氏をも 凌がむとする出来栄えで迚もその他の人には真似も出来ない、若し一二の思附をいへば左の幕が稍堅さうに見えるのと右の彫刻物が今少し何うかありたいと思ふ丈で、右の方から疎に出てゐる棕櫚の葉など は何とも言ひ知らぬ旨味がある、無論場中第一の傑作、今更何でもござれといふ技境の広 いのが思ひ當ツて敬服の外はない、他の『外山氏肖像』も肖像画として近頃稀に見るところの上作であツた
△中沢弘光筆『賎民』と『漁村の小春』 二枚とも位置といひ色といひ善い出来だが、賎民の方は少しくごた付いて居るやうだ、この人は近来大に進歩した方でたのもしい

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