白馬会展覧会批評(一)

  • △△生
  • 時事新報
  • 1899(明治32)/11/19
  • 10
  • 展評

白馬会は年々盛大になる許りで喜ばしいことだ、今茲の秋季展覧会も先頃既に一 見したから余事は後廻しにしてその内の鑑査に及第したものと、其他二三の作品に付いて例 の通り批評を試みることにした
△磯野吉雄筆『黄昏の萩』 さきに鑑査に及第した画だ が上々の作とは申し悪い、第一萩の描法が感服しない、ちやうど灰色の烟のやうで 又坊主の持つ払子が吊下がツて居るやうにも見えて、今少し萩らしく表はして貰ひたいのだ、夫れに敷石の先 の方が前よりも重くみえるのは何うしたものか、門も下の塀との関係が少しく変故に思はれる、併 しまづ黄昏といふ意味は十分表はれて居るらしい、同人筆『農婦』は只穢ない肥えた老婆を立たして置い て写生したといふまでにて少しも農婦らしく見えない、骨格の上からいふも殆ど形を成して居ない、 腕の大きさに至ツては迚も普通の人間にはなさゝうだ、夫れに箕から滾れて居る芥子やら豆やらが 丸でインキでも滾したやうで、鶏などは寧ろ無くもがなだ、総ての描法殊に遠景に至ツては如何にも面白くない、今一段の奮励を望むといつて置く
△広瀬勝平筆『曇』 この画は前の鑑査会にも出て居たがなかなか善く出来てゐる、曇天といふ感情もよく表はれて居るし、布置濃淡描法等もまづ無難の方だらう、中景に牛などを置いたのも面白い思附だ、併しどちらかと云 へば稍々晩景といふ心持になりはせぬか、同人筆『夏の河原』は前のに比して大に見劣りがす るやうで画面が何となく騒々しい、殊に厭らしい色や筆の遣方がおとなしくない感じがして 何うも調子の整はぬ画と云ひたい方だ、前方にある今戸焼のやうな二ツの人物も割 合に大き過ぎるから是れは一人を省く方が見宣からうと思ふ
△窪田喜作筆『河原の朝』 これは又不 調和極まる画で無理に新派を学むだやうにも思はれる、毒々しい厭な色が多分に遣ツてあつ て肝腎の朝といふ感じは何うも怪しいものだ、畢竟腕が若いのだらうが今少し正格にやつて貰ひたい、特に左の下の隅にぬりのこしの見えるのは甚だ見苦しい
△赤松麟作筆『社』 ちよつ と面白い場所にて配色も運筆もまづ善いやうだが何となく落附かないといふ風 がある、尤も前の木葉や地面などの描法は大に同情を牽くに足るけれども色の遠近と筆の調子の整ツて居らぬといふ欠点は免かれないと思ふ、夫れから倒れ木に腰掛けて居る人 物は何うやら乞食坊主が半風子でも探して居るとしか見えないし、また倒れた木も 丸で土管の転ツて居るやうで面白くない、この辺を直して今一際仕上げたなら ば中々善い画になるだらう
△郡司卯之助筆『円山茶店』 この画は最も拙なる描法で無論評などに掛る方ではないのみならず、本来がこの会に出さうもない画だ、直隣りの明治美術会へ行くと亀井とか渡辺とかいふ人達の描く景色画があるが夫れによく似てゐる、大方そツちの 畑から出た人だらう
△北蓮蔵筆『遺児』 画題の上からいふもちよつと思附で奥深い意味 があり人の感情を動かす方の画であるが評者が例の小理屈をいへば遺児といふ感 じを表はすことに付いてこの画の仕組は何うも気に入らぬ、なにも棺桶を檐出さなくとも外にい くらも此意味を表現するに足りる相當の仕組が沢山あるのだ、何うもかう露骨に遣つては写 実とか自然とかも這ひやうで滅茶々々になツて仕舞ふ、何だか近所の美術院に でもかぶれてべられては作者も閉口だらうが)一番意表のものを作ツて世間 の奴等を驚かしてやらうといふ風が仄見えるのは真に遺憾だ、しかしこの画は場内第一の 大作であつて多分の日子と労力とを費し又苦心の痕も歴々として現はれて居り、兎も角も斯 ういふものを仕上げた作者の勇気は大に賞賛すべきことで鑑査に及第したのは決して無理ではない、その位の報酬は無論あつても宜からうと思ふ、そこで単に画の巧拙の上からいへ ば人物の関聯が欠けて居るといふことは到底免かれない、精しくいへばモデル画に陥る弊、即 ち個々の写生を集めた結果が不調和になツて居るといふのは特にこの画の大瑕瑾であら うと思ふ、夫れから大体の色が何うもこの派の特色ともいふべき寒色に勝ツて居るのは是も敬 服し難いところだ、夫れにこの画は朝であるか、昼であるか、夕であるか、将た又曇天の ときか、晴天のときかと斯う考へて見るとして更に判別の付かないのは結局色彩の関係から来るので何も物体物質を表はすのに僅少の色に限ツて仕舞はなくとも宣から うと思ふのだ、併しこの画の本来から見て悲哀なる淋しげなる色を多く遣ふのは決して悪いとは言は ぬが夫れを何処へでも応用するのは少しく無理ではないか、総じて締りがなくドロドロして居るのは運筆の工合も大に関係ありて衣紋などのだらしのないのは少しも物質を表はして居ない、肉体も衣紋のあたりの風物も大抵同じやうであるから肝腎の感情を惹起すことが甚だ六かしいのだ、例へば後の田だか畑だか薄黄ばむだところは丸で木綿綿の古び たのが散乱して居るやうで森の描法なども真に拙極まるものだ、少しく酷評かは知らぬが題目以 外には自然が表はれて居ないと放言されても仕方がなからう、夫れから画題の主人公たる遺児が手に柿やら蜜柑やら赤いものを持ツて居るが何うも帯に手を挟さむで居るとしか見え ない、これも結局自然の表現が足らないからのことだ、もう一ツ言ひたいのは各人個々の意思を一番現 はすべき眼といふものが生憎何の表情もして居ない、此辺が画面の関聯を失ふ一原 因であらうと考へる、もう一ツは駕夫共が前進の態度をなさぬことゝ姉娘の左 の足と顔の向け方との釣合が少しく無理ではないかと云ふことだ、細評すれば色々物足らぬ所も出て来るがまあ評者をして言はしむればこの画は北氏として近来の大出来といふべし だ、この位にして他の画に移ることにしやう
△小林萬吾筆『魚貰ひ』 これは又非常に明るい消魂 しい色を遣ツて一見海岸のまぶしさうな工合は表はれて居るが併し頗る単調で色の生々しいといふ申分は免かれないと思ふ、評者の欲望をいへばこの位のものになると作 家はもツと深い調子と細い物体の形とを見出す眼識を始終持ツて貰ひたいの だ、先年湯浅氏も海岸の画を描かれたがこの画はちやうど夫れとおなじ描法で人物の手足の色などは日本人の特色 を現はして居るとは云へない、夫れから前の二人の女の風も漁村などには何うか知らむ、同人筆 『夕の森』は小さい画でスケツチの仕上ツたのだらうが中々に見られた、前の平地の色と左の小高き草とが少しく不確だがまづ無難の作だらう、迚も前の画だの同じ人の卒業製作 だのと比べものにならぬ、夫れも小さい故だらうか、今一ツの鑑査に當ツた『漁浦晩景』も好 一対で宜い出来である
△森川松之助筆『雑草』 此人は斯ういふ風の画が至極得意のやうで前に も一二面見受けたが、今度のもなかなか洒落に出来てゐて位置といひ色調といひ明暗描法とも善く整ふて垢脱のしたいや味のない所が面白い、少し遠近に申分がある がまあ出来の宜い方だらう

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