白馬会画評の殿り(五)

  • 渦外山人
  • 毎日新聞
  • 1898(明治31)/12/04
  • 1
  • 展評

黒田清輝君の大作は一群の男女に向ひて山僧物語をなす図なり。此画はこれまで展覧会にて観たる風 景なり人物なりの一部分の写生画とは事変りて眼新しく感じた、此人 の出した画は数多けれど此画のみは普通の油絵の約束を外れて 物の配置や線の組合せをおもな條件とし、これに施した彩色は配色の調和をはかり濃淡の度を軽くしたものと思はれる、それゆへ実際を見たる如 き感じは起らず能く画たるの趣を味ふことが出来る。人物の箇々の姿勢 と其組み立てとは充分の練磨をなしたるものと覚しく誠に申分なく出来 上つた。色は変化に富み近いところに強き赤色をつけて背面の緑色に対応させたるなど注意の届いて居る。また線の上からいへば前の人物を置きたる地の面と背後にある門や山の端の面とは遠近法のとり方を違へて空の余地を与へ建物の勾配を和らげ線の調和に苦心したるところがある、兎に角装飾的人物画としてこれ程の出来栄があれば作家も骨折甲斐があるといつていゝ。前の画の側にかけた木の下に女の臥たる図は木の葉の繁り たるさまやそれを透して草の上に強き日光のきれたる具合は中々いゝ。併し 何の意味もない画だ、着物の白く且新らしくて百合の花に麦藁帽子などのあるを見れば別荘住ひの都人らしいがさりとて薪を背負ふ遊具に枕したれ ば正しく農家の女に違ひない、それとしては仕事に疲れて木蔭に休らふといふ趣 見ゑず、全体百姓の女が百合の花などを折りて楽むやうな暇はな いものだそんな呑気な生活を写せば労業者の意味はなくなる。少女の竿を木の枝にかける図は全体 の色がどろりとして日なたの力が足らず人物が後景より明らかに離 れない、しかしのびあがつて高きところに竿をかける姿勢は一寸いゝ。
ヲルタア、グリフヰン氏の肖像はイン プレツシヨン流の描法にて細かに血色の鮮かなところを画き潤沢に顔料をつけて重くならずまた面の骨相の頽さゞる力量感服の至りだ。浴衣 の襟つきのあやしげなのは日本の衣服を見なれぬ外国人のことだから是非ない訳としてその白 き浴衣と白き背面との釣り合を誤らなかつたは手際なり。外国の村落の景は遠近の別などにかゝわらずに色の調和を主とした画で日本画の長処をとつてよく 春の心理的興趣を述べた事は何ともいはれぬ妙味がある。たゞ濃淡といふことが習慣上 頭を離れない外国人なれば物の輪廓を思ひ切つて鮮明にやらなかつた丈が惜かつた。
小林萬吾君の馬かたの図は大体は難がないが人物のかき方 の硬いのと馬の足元の覚束ないとが欠点だ。雨あがりのさまは地面にも草 の色にもまた遠景と空の様子にもよく見ゑて居る。
矢崎千代治君の池の端の景は一寸 器用な出来だ暮れあひの人通りを甘く写してある、柳の木はあまり無茶苦茶 で箒を立てたやうだ。赤松麟作君の少女書を読む図は色はちときたならしいがしつかりし た真面目な画で趣も取れて居る。
北蓮蔵君の景色では三百十六号、三百十七号、三百二十号の三つはかき方がゆたかに色も至極鮮やかで落ついて居る但し前景に筆が足 りない。
中沢弘光君の水画不忍の雪の景は雪のとけかゝつた色が中々よく出て居る、 これが解けてしまわない内に一杯やりたいやうな心地をさせる。(完)

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