白馬会画評の殿り(二)

  • 渦外山人
  • 毎日新聞
  • 1898(明治31)/11/30
  • 1
  • 展評

藤島武二君の女の二人居る大幅は何を意味するか一向に分らない何んだか耶蘇学校の女学生 がバイブルでも暗記するといふ風もあるがそれにしては場処といひあたりの道具立てといひ耶蘇 にも読書にも一向に縁がない。又たゞの涼みとするは呑気に涼んで居るとい ふところが見えず書を読むは涼みとは別の一つの仕事となる。兎に角此位の大きなものに人物を主にする作ならば何とか意味がなくては困る。若しある面白 い風景を見せよふとならば書を読んだ人物を添へ物につかふは差支なからんがそ れにしては人物が大きく眼立ち過ぎるぢやないか。されどお手際の方に至つては色の 調子といひ空気や光線のあたり具合亦遠近の差別等にいたるまで中々行き届いていゝ出来には違ひない此他の風景はいづれも色の調子が穏やかでよく■され てはあれど全くの風景丈の絵としては物足らぬ心地がする。人物をつけるかさなくば人物 の■へ物にして見たいと思はれる。若しやこれを用ひて人物画を作られるならば 今度は一つ纏つた考を見せるやうにしてほしい。
山本森之助君は場中で一番沢山の画が出でたるが其内で最も眼についたは田舎道に日の暮れかゝつた図が稲の熟したる秋 の暮に日は全く落ちて肌寒き気中に水蒸気の凝り初むる頃あひの野外の趣充分である。次によく見えたは富士の山なり場処は静浦あたりならん松のあたり富士の眺め空の色まで冷たき夕暮を写したるこなし妙々。和田君 の富士にまさりてすらりと出来て居る。たゞ前景の沙山ごときもの未成の作と思 はれる程疎末なるは如何にも遺憾に思はれるところだ。杉の大木ある道の図は日なれと蔭の 区別樹木のかき方は細かに研究したる作なりしかしどこも一様に綿密なる筆 なるが為め却つて写真に彩色を加へたる感じを与へて面白からず。
ラフエル、コリン氏の横向きの婦人、此人は仏国にてどの位の画かきなるか知らねど山人は一向感服 せない。編み物やら何やらやつて居るところ活動に乏しく顏や手先 のかき方あまりにやり過ぎて妙味を失ひたるを覚ふ、これに反し背面の筆づかひは 非常にあらき故前の人物がけられて一層弱くなる。色の点よりいはゞ女の面色余 りに黄ばみて日本人としても白き方ではない況んや白晢人とはどうしても受取 られぬ。また背面の色の調子が強すぎて人物が緑色の中にもぐり込 んだやうだ。野の景の方は遠近の具合は一寸いゝやうだが晴れぬ時か曇りか雨の朝か晩か其辺がはつきり見えぬ兎に角風景画としては位置整はず。
他 の墨画の立てる婦人は腰より下が余りに長きやうにて体の釣り合は取れて 居らぬが全身の構へは妙なり殊に手足をのばして謡へるさま指の先まで其精 神が見へて面白いまた腰以下に纏へる衣装の襞なども柔らかで中にある骨格をよく示して居て遺憾がない。

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