白馬会展覧会所見(二)

  • 芳陵生
  • 毎日新聞
  • 1897(明治30)/11/18
  • 1
  • 展評

博覧会出品の候補如何(続)
◎彼白瀧氏の稽古は、五個の人物を寛やかに収めたる結構の大いなるさへあるに、其筆の條暢なる、悦ぶべし、氏の画は往々一方に於て疎放なる箇所ある代りに、他方に於て規模の大まかに、趣味の饒 きを覚ゆる所あり、他日の造詣予め測り難きものあるべし
和田英作氏の『渡頭の夕 暮』、美術学校にての卒業製作なりと聞けるが、苦心の結果舟待の趣より四辺の光景まで巧みに描き出だされ、人をして徐ろに田間の生活 と風色を想はしむるものあり、人物個々活動して夫れ夫れの情趣掬すべく、遠近の景色筆々確かなる所ありて賞すべし、老爺の手附狐じみたりなどの評も聞ゆれど、年寄れる人には間々有勝ちの様なり、此等よりは指 させる牧童の脚こそ言ふべきことは多かれ、膝の辺より脛に掛けて輪郭の研究怱がせなりけん、左は棒などの直立せるが如く、右は亦おかしくも ふくらみたり、遠景の渡船に棹させる人物、其形暮靄の模糊たるに包 まるゝとは云へ少々不確かならずや、水面を描く筆の少しく密に過ぎたると、 遠景の川の界線稍や下り過ぎ何処までも直瀉して此方に迂回せるものゝ様見へざるなど難ずべきにや、
◎安藤仲太郎氏の『曙』氏は肖像画に於ては 屡々大物を手掛けらるゝならんも、景色画としては此『曙』近年に珍 らしき大作なるべし、布置もよく着色も調和せられて、暁色微茫の間に日光 の洩れ初めたる所充分に見られ、烟の船窓より昇れるを画きて 景色の間に一の働きを添出し、全幅に活動の気を与へたる面白し、前景、日光の水に映ぜる所一と通りは反射の色も研究 したる如くなれど、浪の裏表を忽がせにしたるが為め、其青き所は浪の裏ならで表に置かれ何にとなく草のやうに見ゆる節もあるは憾むべし、我れの第 一に感じたるは前景に繋れる船の影なりき、濃淡其処を得ずして全体 に重きに過ぐる為め、幾分か船の引立ちを損ぜし傾あるべし、此点特 に氏の再考を要したく覚ゆ、
◎京都博覧会の裸体画にて狂ひ眼となりて噪ぎ廻りし者なるは終い一昨年の事なり、流石に眼と心 の進み来りけん真正の美術製作たる裸体画に対しては復彼 の如き失態の徒を見ず、悦ぶべきことなるも、其変遷の速かなる余りにをか しきやうなり、
◎黒田清輝氏の裸体画は題して智、情、感と云ふ、惟ふに絵画に印象派理想 派写実派の三者あること端なくも氏の想を駆りて、印象即ち『感』な るものを理想即ち『智』なるものを写実即ち『情』なるものを何者にも妨げられざる裸体に藉りて円満に表示せんと企てしめたるならんか、日本人を『モデル』に為たる裸体画 は之を以て嚆失と為す、日本人をモデルに用ひ、日本人の頭脳を以て、而かして日本の地に於て裸体を描くも今日既に此位 の作を為すこと敢て難きに非ずとの抱負、氏に於て在りや無しや之を 知らずと雖も、此数点を以てするも、洋画発達の中心を以て自任する仏国博覧会への出品には最も適當せるを見ん、
◎印象理想写実の三者先づ如何にして之を表はさんか、三者相対して釣合を保 てる形状の如何すべきか、此等は氏が技を施すに方りて多少の苦心 を要せし所なるべし、中央なる『感』の、一道の霊光脳裏を射れる如 き、右方の『智』の相睨に溢るゝ、左方の『情』の恥かしく物憂はしき其々 にこそ見らるれ、一点陋劣の感を誘ふの地なく却て崇高の念催ふさるゝもの固より氏の技巧あればなり、而かも世人の多くをして此念を起さし むるは地の金泥の、日本人の眼に適せるにも藉ることなからずやは、作家に取りては 金色の強きに考へて多少の苦心はありしならんも、如何なる公堂に掲 られ、如何なる美装を帯べる製作の前後を取巻かんにも輙く之に蹴ら るゝの恐なき利益はあるべし、殊に洋風適當の建築に上らんには地の金色は却りて弱められ中の引立ちて見へもするなるべし、
◎単純なる線を以て描けるは、ピユビス、ド、シヤバンヌが近年頻りに画き出だせる所、氏も今や此壁画 的即ち装飾画に指を染めて古代希臘の美はしき辺りを偲ぶ にやあらん、而るも其の形を壊さゞる所流石に氏の技倆を見るに足るべ し、形を保ちて線の単純なるほど、作品の味深く気高く見ゆるはあ らず、唯だ通常の手腕に於て難しとするのみ、装飾画に於ては其画 の浮み出でざらんを要す是れ一は金地を用いて恰かも切抜きて置かれたらんやうな るを期せし所以なるべし、
◎形体の長短を云々するは写真と美術とを混 合するの徒のみ、難ずべきは『感』の掲げ居る右の手首の骨稍や外に 出で過ぎ、『智』の右肩の凸起せると右脚の膝辺りなるべきか、ソレに『情』の 揚げ居る右腕の曲り際平たくして骨の間に肉のまるみなきが如くも見 へずや、此等二三の批点如何敢て作家に問ふ、
◎『衣を着けたる人物画は、 其衣下に体の全然はいり居る者ならざるべからず、故に裸体画に於て先 づ充分の研究を要す』とは氏が常に子弟に教ふる所なりとか、此 の秋草に画ける佳人は能く之が模範たるもの、体の充分にはいり居りて何処にも空虚を覚へず、佳人繊手を揚げて軽く萩の枝を払ふ、画は 秋草と題すれども、此一瞬間の情趣こそ作家の捉へて自家の薬篭中 に投せしものか、萩の紅も淡りとして中程に白芙蓉を出だし、下 に桔梗の紫を添へて、色彩の調和を謀り、而かも此種々の花 の中に包まれながら、花の為めに主画の邪魔を為られざるは、配置の妙と軽々筆を着けたるとに依るべし、唯だ上部に見ゆる白色の部分は空 なるべきも其色萩の葉の白き所と続きて距離の見へざるを覚ふ、
◎世 上其佳人の芸妓なるを云々し、若し貴婦人ならましかばなど説く者あり、此 等は彼の白瀧氏が稽古の画題を陋なりとせし儕輩の説なるべし、良し芸妓 なりとするも、一たび作家の芸術に上りて此に高尚の感を与へしむる上 は美術に於て何の妨碍あるべき、其素性を論じて其製作に及ぼすの人は妓なりと聞けば即ち之を斥け、令嬢なりと聞けば即ち何 処とやら品の高きなど評する人なるべし、
◎我れの見を以てすれば、以上述るが如き価値を有して其面積の大なる彼等五個の作こそ萬国博覧会の晴れの場所に打て出べき恰當の者なるべき歟

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