白馬会一見(上)

  • 銀杏先生
  • 日本
  • 1897(明治30)/11/06
  • 2
  • 展評

◎所謂旧派 の一団体明治美術会が協同和合の風なくして徒らに天狗連の衝突に日を暮らし其小人的の小ゼリ合ひに依つて却つて会全体をして萎縮せしむるが如 き傾向あるに比すれば白馬会が互に提携して年々盛大の境に進むこと誠に感ずるに堪へたり是れ一は会員の少数にして其統一し易きに在りと雖も又専ら美術会の 如く裡に小策士の横行を見ざるに因るべし
◎統一はやがて 会員をして奨励せしむるか白馬会員が勉強は実に驚く可き者ありこは黒田氏を初めとして末輩の人 に至る迄一般に此風あるを覚ゆ試みに今回の出品に就て之れを見るも其一人にして多作なる殆んど他に於て求む可らざるなり多作は濫作たる所以といふはそが一 面の弊をのみ見たる言に過ぎず注意せる多作はやがて大作を成就する階級とせば此勉励や未来甚だ多望となさゞる可らず白馬会たるもの須らく此風を以て進め
◎数年前の批評家 は日本画は想像に富み西洋画は写実に巧みなりとしたり顔に主張したりしが今日白馬会と隣りの絵画共進会を比較し来ればかの井蛙の所論 は此二会の比較の上に於て初めて適當なるを得たり吾人はかの批評家の共進会は空想に走り白馬会は写実に偏すと云ひ代へざるを惜む
◎思ふに黒田氏 等は眼 中終に主観無き者か彼が描くもの一切是れ客観のかたまりなり且つ氏がこの一刻なる傾向は唯欧州風を其のまゝに奉じ直ちに以て我国に調和せしめんとす見解於 此多少狭隘を免れずと雖も而かも是亦直ちに氏が特色なるやも知れじ
◎今回の出品 実に三百点以上と聞く而かも一見平等の紫灰色軽々之れに対せばドレガド ノ人の作なるやを弁ず可らず会全体には紫派の特色を見れど場中の出品には箇々の特色殆んど知るべからず思ふに門下の人未だ黒田氏以外に多少自己の特色を発 揮するもの無きかいでや之れより諸家の作品に就て例の略評を試みん
◎先づ入り口 に今泉一飄氏の狂画数点ありて次に白瀧幾之助氏の陳列欄有り中に最も骨 折りの作と見らるるは師匠が三四の女児に対して三味線を教ゆる大図なり而かも画題既に卑俗なるが為め図中些も高尚の趣味なく品位に於て先づ一等を下せり是 等は余程割のわるき作といふべきか人物の配合可なりと雖も各自の凹凸宜しきを得ず且つ全体の照応面白からず周囲に散布せる物品頗る錯雑して大に統一を害せ るは悪しゝ個人個人の感情は比較的甘しといふべし
◎久米氏の作 次にかゝる然れども他氏の如き大作を見ず唯十数葉の作皆片々の小画なり故に氏が真技を評 すべき無し只この片々の作に就て之れを見る湖畔晩春の一幅最も目立ちてよし去年の枯草の間より白き草花の萌へたちたるあたりなかなかに面白く中景の小松原 も難無し只遠山の遠近なくして一つにこねたるが如きを疵とす
◎和田氏の作 頗る多数なり内に渡頭夕陽の一大画最も苦心の筆なるべし人物の配合各自の感情 態度等甚だ當を得たり其薬鑵提げたる女の牧童と談話せる所を主眼としたる着意亦佳なり其爺の手つきの狐じみたると背の子の体格総て不合格なるを去らば煙草 吹く男の線の組合せの巧みなる其対岸を凝視せる小児の無頓着なる後姿など更に一層の見栄へあらん水面の遠近に遺憾ありて青畳の如き感あるは尚一段の苦心を 要する所か敢て反省を望む
◎安藤氏の作 海上の夕景舟がどれもどれもパースペクチーヴに違ひて倒れんとするは何事ぞ最近景の舟の窓に登る煙は宛として糸 にカルタとぶら下げたるが如く海の前景はさも凶年の草原に似たり旧派画家が俄に紫派の真似して全く如是次第にや少し首を捻つて可なり
◎藤島氏の作 納涼 下画人物の照応悪し広瀬氏の作農婦の画図柄よく位置調ひ描き口も面白し只前景の道感心せず湯浅氏の鶏と小女の図斬新といふべし
◎彫刻品 は菊池氏の作二 点あるのみ其内小女の像筋肉堅きに失す今少し小女らしく柔らかき感を起さしめたし(銀杏先生)

前の記事
次の記事
to page top