白馬会の解散に就て

  • 読売新聞
  • 1911(明治44)/03/11
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去る廿九年創立以来我国洋風画会に新運動を起し、幾多の貢献 をなした白馬会は八日総会を開いた結果満場一致を以て解散する事に決した、正式の解散式はやがて桜花爛漫たる四月を期 して挙げられるさうだ、創立者の一人岩村透男の解散に関する談話を掲 げる
其一 男爵 岩村 透
私は白馬会創立者の一人であるけれども既に十年程前に退いたのであるから唯局外者としての感想を述べるに過ぎない。白馬会創立當時 の日本洋画界は固より一般美術界の形勢は今日の状態とは遥かに異つてゐた。新帰朝の画家が當時の状態を慊らなく思ひ何等かの新運動を起さんと同志の者協議団結した之れ が創立の直接原因である。然し當時の美術界に対する不満足 と見るのは非常に狭い解釈で其の実は明治美術界引いては社会全体の有様に不満足で有たのだ。今日では美術が非常に社会一般から重ぜられ新聞雑誌上美術に関する記事を見ない事はな い位であるが、創立當時の状態は実にみぢめなもので新聞雑誌に其等の記 事の現れる事は極て稀であつた。當時の新帰朝者は西洋の生活と美術の親い関係を直接眼にしてきたのであるから我国に於ても如何 かして美術を重要視させたい、生活問題の上に重く見させたいと言 ふ望を抱たと云ふ切な要求に駆られたのだ、洋画の真面目な研究 と當時存在した団体事業の仕方、言はゞ展覧会に対する不満足も原因であつたに相違ない、當時の展覧会と云へば極めて不整頓なも のであつたが陳列法を改善したり仏国あたりの展覧会にあるが如き目録を 作つたり、従来の勧工場風の陳列を改めて美術品を楽しむ場所 として設計しやうとする企て等は我国では白馬会が先鞭をつけた事業 である。
十五年以前には斯かる有様であつたのが其後漸々発展して種々の美術団体も増して来るに四年前からは政府の事業として美術展覧会が催されると云ふ状態になり、従つて社会よりは重視され日々 の問題となるに至つたのは独り白馬会のみの力でなく一般の進歩の致す 所であるが公平な眼で見れば確に白馬会が全体の運動に寄与する所の少なかつたと云ふ事は断言して憚らない。
斯く今日の洋画界 、のみならず全体の美術界の有様が創立當時の事情と異り、當時の人々が理想としてゐた所は多くの点に於て成就し、一段 落着いたと言ふ形で之からは技術の研究、制作と云ふ事が益々 個人的ならざるを得ないと同時に区々たる當派の団結を旨とせず大局面から打算して運動せねばならぬと云ふ時代になつてゐる、斯る点に於て白馬 会の人々が時勢を洞観し解散と決したのは非常に時を得 た事であり結構な事であると思ふ兎も角白馬会の事業は熟して 落ちる時が来たのだ、目的は殆んど貫徹せられたのだ、勿論白馬会が當時 の状態に不満足で起つたのであるのだが亦た今日の美術界に不満足であるならばやがて又新しい団体が生じて来る事は疑はれない。
其二 満谷国四郎  白馬会解散の事に就き昨夜太平洋画会の満谷国四郎氏 を日暮里の寓に訪ふて感想を聞く。雨静かなる階上に氏は徐ろに 語る。
ヤア白馬会の解散の事ですか、突然でまだ何ともお話は出来 ませんね、実は只今忙しい仕事をして帰つたばかりですから…それに今朝一寸新聞を 見て知つた位のもので之れから如何なるか幹部の方々の考へが那辺にある か其も判りませんけれども僕一個人の考へとしては今迄の様に技倆の競争 は団体として続けて見たいと思ひます。恐らく私共の太平洋画会の人々は白馬会の解散などゝ云ふ事は少しも念頭に置て ゐなかつたらうと思ふ。殊に若い人々の胸には太平洋画会にしろ白馬会にしろ研き上げた腕の競争を楽しみにして知らず知らずの内に向上 して行く人もあつたらうと思ふ此点に於て白馬会解散の事は誠に遺 憾と感ずるのである。尤も今後に於て白馬会と太平洋画会とが 大合同でもして我が洋画界の為に向上して行くと云ふ事になるのならば 其れは大問題ですが兎に角僕は未だ解散と云ふ事を新聞紙で見 ただけで別に之れと云つて感想も纏つてゐません。

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