白馬会展覧会を観て

  • 東京毎日新聞
  • 1910(明治43)/05/21
  • 1
  • 展評

△翠色深き上野竹の台に白馬会展覧会を観た、開会匆々なので出品目録も出来て居らず、無名の人の作がこれか、大家の作があれか、どれがどれやら一向分らない、作家の名前や画題を見なければ絵の解らぬ人には少々お気の毒だが、いつそ署名も画題もつけづに開会するのも面白かろう
△出品総数六百五六十だ相だが、画面の大いのは数へる程しか無く、小幅のもので充ち充ちて居る、宛然勧工場だ、絵と絵の間が僅かしかないので、どんな名画でも此な処に陳べられてはたまつたものでない、場所の自由が出来ぬ爲め、調子の軽い渋い気持の宜い絵なぞも、勢ひ強いギラギラするものゝ側へ持つて行く様な場合も出来るのだ、之れに依つて見るも完全な展覧会場を造るのは目下の急務だと思ふ。
△小さいものゝ多い故か甚だしい悪作は少なく、概して歩調が揃つて居る、特に所謂大家ならぬ人の作に甚だ立派なものが見へる、要するに此の二三年間の洋風画の進歩は著しいもので、自己発揮と芸術上の自覚とか云ふ風の観念が、青年画家の頭に湧いて来たからで、甚だ喜ぶべき現象だ、かの徒らに先輩の鼻息を伺うて絵をかいて居る人よりか数等うれしい、三四年も故郷の絵を見なかつた最新帰朝の先輩も、此の成績を見て其の進歩の顕著なるに驚き且つ喜んだ事と思ふ
△が、此の中の或る者には頗る見當違ひをやつて居るものがある、或は独仏あたりの漫画雑誌の挿絵を真似たり、思ひ違ひの印象派らしいものを始めたり、文部省展覧会で受賞したものと同趣味同筆法同構想のものを無理に作つたりして居るものがある、これ等は無論研究生の作ではあらふが、これ等諸君の考が聞いて見たい、不見識極まる話だ、此の人達は新帰朝者の齎らした作風の評判がよいと、盲目らになつて直ちに其筆法をのみ真似る、コー云ふのが来るべき文展へ出る事だろう情無い
△参考室にはベラスクエスとか、コランとか、泰西古今の大家の肉筆やコローが掲げられてある、写真版でなければ見る事も出来ず、憧憬ぬいて居つた情人に接して、胸をとゞろかした人も多と思ふ、毎年同会の此の参考室に出るものは甚だ有益なものであるから益々此の方面に力を盡されん事を切望するは、自分独の希望ではあるまい
△情緒的な物語風なものでなければ絵でない様に思つて居る一部の人士や、写生即ち芸術品ではない、頭がないなぞと知つたかぶりしてケなして居る人達も、此の頃の同展覧会を見たら始めてお眼がさめる事と思ふ

前の記事
次の記事
to page top