第二室
○階段を登つて此室の入口に近くと妙に高い絵の 調子に驚されるが、須臾にして、それは唯表面的のものに過ぎないのに気が付く。 大きな夏の海の如きは畢竟ペンキ屋の絵である。第三十八号は辻丸氏 の春の日といふのである。「はゝ、之りや何処の絵だらう。見たやうな所だ。」と観客の一人がい ふ。「日本ぢや無からう、西洋だらう。」と他の人が答へる。―実際だ。僕等だ つて、之が日比谷の一角だと信ずることは出来はしない。僕等は西洋人の官能及び気品で以て見られた日本に興味を感じて居が。此様に誇張 された西洋模倣は不愉快に思ふ。さうして或点までは、近世的といふこ とは、近世人が近世的であると自覚して、多少其成心を以つて作り出 す芸術に現はれるといふことは勿論で、官能と感覚とには別に古人新人の別はないと云はれてゐるに視官に就ては近頃ハイネ氏及レンツ氏 の生理学上の研究が公にせられて居る。）故に一定度までは成心といふ事も許されねばならぬ事だが、夫れに達するまでは十分の忠実なる自然研究が必要である。
○田口真作氏の（五二）御手富貴　この絵はやゝ大きいのと、描かれた材料に対 する興味とで目に付いた。暗い色で待合だか銘酒屋だかの茶の間 を描いたものである。吾人は此種の材料に非常に興味を持つてゐる。デガ スやツウルウズ・ロオトレツク等の巴里の暗黒的なし絵画的な）生活の描 写が面白いと思ふ吾人は、また日本に於て此種の画題の捉 へらるゝ事を望むのである。併し其際待合の内部の習慣や年中行事といふやうなものに決して興味を感ずるのでは無い。これらの興味は全く後景に 葬り去つて、画工は唯其内から絵画的分子だけを抽いて来なければなら ぬ。独逸の美術批評家マイエル・グレエフエ氏に従ふに、デガスは厭世家で、世界の凡てに対する反抗家であつたさうである。巴里の芝居や、踊子や、見世物小屋の顔青ざめたる女などはかゝる態度から観照されたのだ。併し彼は決して自 己の画工であると云ふ事を忘れなかつた。故に其色彩は新鮮で、優に仏国十九世紀末の色彩画派の覇を称へることが出来た。然るに吾人の今評せんと欲する『御手富貴』の絵は全く待合の内部の生活が珍らしく、そこに物質的興味を感じて画いたかのやうである。第一其構図は尋常で、其色彩は凡庸だ。殊に若い方の女が唄かなどを刷 つた赤い紙を持つてゐるのを見るとさふいふ流行唄の摺物とかまた手拭などに興 味を持つたかと、作者の見透かれるやうな気がして厭である。
○太田三郎氏の諸作のうちでは　（六 二）鈍き日といふ画が気にいつた。同氏の色彩観照の態度には固より同意し兼 ねるが。僕の同情するのは此絵の包む情調が、僕の一度経験した所 に似てゐるからである。
暗い町の一角、草の生えた空地の片隅に一軒の商家が建つてゐる。空地は其裏になつてゐて、二つの傘が乾されてゐる。曇り日 の一度一寸出た日がまた引つ込んだやうな陰鬱な空気の中に、死せるが 如く右より左めに遠く街道が走つてゐる。街道の遠き方 には朦朧たる二三の人影が見える。絵の後景は、街道の向ふ側の家並、―及び其屋根を越えて見られる煙突の群れである。一種の暗く陰鬱な情調はの小品の或者に見るが如く？）よく表はれてゐ る。其他にはあまり感心する作は無かつた。色は古き脂肪のやうに暗いのが多い様だつた。
○黒田清輝氏の温雅な気禀は、屡一つの花、一條の光 に多大な興味を持つやうに見える。庭の一隅、丘の一角等の空気を狙つたのが従来非常に多かつた。吾人と雖も其態度には固より賛成 であるが、併し氏の小品が多くの後人を誤りはしないかと云ふ事を恐 れるのである。（八０）（八一）（八八）（一五三）（一五四）（一五五）（一六三）（一六四）（一六七）（一二一）（一二四）（一三一）（一三 二）等の絵は何も氏の先例を追ものである。
○桜の花が油絵でフレツ シユに画られたら非常に好いだらうと常に思つてゐるが、安藤氏（七六）の夕桜には少しも感服する事が出来なかつた。