白馬会を観る

  • 野口米次郎
  • 読売新聞
  • 1905(明治38)/09/27
  • 1
  • 展評

秋冷肌を甞め空気黄色に風物静かで而かも艶である青天に一点 の断雲さへ無き好日曜を得て杖を上野公園に曳いた、此の好期節 に白馬会の展覧会ある其時を得たものだ、乃ち入つて見た、
白馬会を見ざるを望むと僕の一友人が云つたのハ必ずや失望するならむ といふ意味であつた、僕ハ先年の白馬会を見なむだが新聞雑誌上の批評を種とし『戦争中の美術』と題して黒田和田岡田諸氏の作品を 称賛して一文をボストン-米国中の美術的なるボストンの一雑誌に投じたことがあ つた、僕が予期した否先年書いた称賛ハ今年失望に終らないかと心配一方ならずであつた、果然、(僕ハ白馬会を見るのに倫敦のテート絵画館を見た目で見るの愚であるのを白状するのである)、欧米ハ歴史なり経験ある所謂西洋画上の古図であるのを新来の日本と比較するなどハ画家の拙劣を笑ふよりハ評者の暗愚を罵倒するの至當でハあるまいか、
五号館の中央にある大室の中央ハ清楚優美で唯もう其意気と優々と して迫らざる美術的空気を縦横に漲らす一幅がある、日本人の作か如 何なる大家か否、仏人コーラン氏の作であつた、此の作を見ると写実以上で而かも其要部要部を忘却せず何なる巨腕、幅の後にハ美 術の神に膝まづいてゐる大家の頭がありありと見えるのである此の画に於て 初めて大なるスペースと盡きざる美術的空気あるのを見るのである家へ帰つても其画 が眼にありありと見えて胸裡がすがすがしくて一種の美観と快感を覚え て僕に財産があるならバ金を捧げて画と交換したいと思はした、其双側に小林萬吾氏と和田英作氏との大画幅が掲げられて居た、萬吾氏の 作にハ写実の確なる所あれど大なる優然たる美術的空気が少く静御前の舞といふ頼朝の面前で歴史上の大題目を捕へな がら大と広といふのを画面に入れることが出来ずに四畳半へでも推込めたといふ少なからぬ窮屈を看客―少くも僕に感じせしめた静御前の顔の表情にも異論があらう背景と余りに接近して居るので生きた雄々々しき美女で 無くて人形の画と成り終つたのでハあるまいか、然し艶麗なる作品であるとい ふ点に於て異議ハあるまい唯だ美術的のデイチンクシヨンが無いのハ残念で、要 する所画其物ハ作家自身の性質と確信とを表明するもので技量を 研くと共に品性の修養が第一であると思はせるのである(つゞく)

前の記事
次の記事
to page top