白馬会瞥見

  • 坂井犀水
  • 毎日新聞
  • 1905(明治38)/10/03
  • 1
  • 展評

△今年の展覧会に於て、大家諸氏の作品寥々として、若手の作品却 て意気の頗る昂れるを見るのは聊か物足らぬ感がある、余輩は 若手の作品の進歩を喜ぶと同時に、否な寧ろそれに幾倍して大家諸氏の傑作に接するのを楽みつゝあつたので。
△コラン氏の作品の陳列せられたこ とは、芸苑の為めに祝するところである、第一其色調の快き、技術の意 を用ひざるが如くにして、而かも透徹せる、流石は仏国に於ける大家の作 として尊敬の念を禁じ得ない、清楚にして優婉なるものである、勿論コラン 氏にしては尋常の作ではあらうが
△小林萬吾氏の「静の舞」は、同君空前の傑作だとは画家仲間の公評だそうで、シツカリした出来栄である。一見して直 ちに「静」と感ずる様にありたいとは世間の注文だそうだが、余輩はそれが果して「静 」と見えやうが見えなからうが、単に舞へる妓女と見られやうが、絵画としての価値 を左右するものでないと信ずるので、強て之を静として見ないで、無題で此画を観て、其作の芸術的価値を定めたいと思ふ手法の確実―尚 ほ何処となく硬きに過ぐる様な感はあるか―は誰も認める所であらう。
△和田英 作氏の「衣通姫」は用意周到の作で構図は勿論故実の考証少 なからず苦心せられたやに伝聞して居る。昨年の「あるかなきかのとげ」の華美な色彩 に反して、今年は頗る渋い色彩の配合を試みたものと見える。 殊に薄暮の景で、季節は春の初なので総てが渋い中に姫の驚喜 の表情態度に至つては決して渋くない、―渋くつてはならぬ筈-そこに作者の才藻がほの見える。
△湯浅一郎氏の巫女は婉麗、中沢弘光氏 の二葉中冬景は寂寥、共に両氏に取りては尋常の作であらう
△岡田三郎助氏の神話には漂漂渺として溶くるが如き詩味がある、花の写生は 色彩鮮麗着筆軽妙、極めて快き佳作である、此の様な小品の佳作に眼を留める人の少くて、唯だ図の大いのに膽を奪はるゝ人 の多いのは遺憾である、芸術品の価値は面積の大小に依つて決せらるゝものでない、また苦心労力の多少に依つて定めらるゝものでもない
△黒田清輝氏の庭園の一隅を描かれた画は春の夕でもあるか一種閑静の感が深い。
△山本森之助氏の湖畔の雪景は自然の実景を写して巧妙、海波の図は飛沫の観察は余程面白いが未だ描破し盡さない様 に見える氏の画はいつも一種の特色があつて自然の観察に熱心な ところは敬服する、どうぞ軽浮なる當世の才子風に染まないで、何処までも自然の友 となって其神韻を得られんことを望む。
△小林鐘吉氏の作は細緻、和田三造氏のは大膽、橋本邦助氏のは器用
△小林千古氏の作は色調 軽淡で、画趣がちよつと周囲のものと異つて居るので、衆目を惹くから新聞 の評判は高いが、画の気品が乏しい。宗教的装飾画の如きは、俗悪の感を禁じ得ない。兎に角一画家を我画界に迎 へ得たるを喜ぶ。
△長原孝太郎氏の停車場の待合は細かな局部 を棄てゝ大いところを掴まうとして、異常の描法を採り一種の感興を現さんとしたものであらう、画面に長原氏の独特なる特色が現はれて居る。
△三宅 克巳氏の水彩画は近来益精緻なる風に入つた、色彩の鮮明にして清快なるところは氏が独占の長所である。野辺の小流を描た大幅 は空気、流水、日光悉く活動の気に充ちて愉快な図 である 、クロード、モネの快活な画趣が大いに感化しては居らぬかと思はれる、水彩で此 大幅をコナシ得てドツシリとして優に余裕のあるのは氏にあらざれば能はざるところだ。
△会員諸 氏の十年間の旧作は、諸氏の特色を研究するには興味のある ものである。

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