白馬会漫評(七)

  • 同行二人
  • 日本
  • 1905(明治38)/10/12
  • 3
  • 展評

一、風景及びデッサン等(小林千古)
△小林千古といふ名は今度の会に始めて見えたやうであ るが、其画の多きこと場中一番である。聞く処によると米国の修行で あるさうなが、さう思ふと、なんとなく米国臭くて、画に一種の軽薄な調子がある。素人 の目からは小意気なと思はれるやうな筆つきではるが、其意気な気の利いた風が米国から流行して来たハイカラ頭の髪の刈りやうと意味の貫通がある らしく、人をして思はず失笑せしめる、仏画めいたものに崇高の気なく、大きな景色 にも自然の雄大な趣きがない。著色とか筆力とかいふ問題には まだまだ距離があつて殆ど評する詞を発見せぬ、世界にかういふものでも絵画とし て持て囃されるとすれば、種々悪口はいふものゝ日本の油絵などはまだまだ末頼し いと言ふべきであらう。兎に角巴里の本場処の気風を輸入して何処かに真面目な処のある我が画界に、かゝる米国風の軽薄な分子は混入したくな い。心ある人にはそれぞれ意見もあることであらうが、かく沢山の画を一時に列ねられる と、白馬会が其風下に立ちはせぬかと少々心配されるのである。
◎新らしいものと、 一寸気の利いたといふやうなものゝ持てる日本ではかゝる画風が或は存外受け るかも知れぬ。御用心御用心などは人が悪いかも知れぬが、千古氏にも尚再応の研究を希望したい。コランの大作などは氏の眼中に如何に映ずるかは知 らぬが、兎に角著筆彩色に今少し堂々とした処の趣味あるべきを欲 するのである。
一、エスキース(青木繁)
△何か歴史上の事柄を画いたものであらうが、まだデッサ ンに過ぎぬ。画も此位でやめて置けば楽なもので、これからがむつかしいのである。併し何処か に面白味がある。
◎この作者の画は前回あたりから一種の特色を発揮 して来た。この会には珍らしい磊落なやりかたで、其大まかな処は珍とすべきである。 或は繊巧を主とする中に交つてをるから目立つのかも知れぬが、今度の画幅も裸体の男の仰のけにのけぞつてをる態度などは随分思ひきつてをる。青年の作 としてはこれ位の意気あらん事を欲する、これが必ずしも上出来といふのでない。たゞ 筆つきのうつくしい女や子供にすかれるやうな画に苦心する者と撰を異にするのを 喜ぶのである。
一、水彩画(三宅克巳)
△随分沢山の作で勉強驚くべしであるが中 には余りに技巧を弄して画面が豆細工かと疑はれるのもある。それに一体の色は何処となく濁つてをつて光りがない、今少し明透ならん事を希望せざるを得 ぬ。
◎中には苦心の作も見えるが、今一々其一幅を題として研究するの余地のないのを遺憾とするのである。
一、デッサン(シヤバンス)
紀念展覧会の前に掛 つてをる小幅であるが、矢張十九世紀末の大家の面影がほの見えてなつかしい。 これと併んで
一、風景(イースト)
の小幅もある。イーストは日本にも来たことのある人である。クスンダ 疎画のやうではあるが、色の精篳は発揮されてをつて、これも珍物の一つである。
◎其他紀念展覧 として古い画が四五室に分けて陳列してあるが、これは今更批評 をする迄もなく各人に馴染のある画が多い。こゝには態と何事をも書かぬ。(完、 同行二人)

前の記事
次の記事
to page top