白馬会漫評(一)

  • 同行二人
  • 日本
  • 1905(明治38)/10/05
  • 3
  • 展評

◎ことしの白馬会は余り振つたといふ方でない。二三年前は多少有為の青年もあり、首領株たる黒田氏も製作に熱心で、二枚や三枚はきつと注視するに足るものもあつて、矢張洋画界中の重鎮であつたが、ことしの作品は當時に 比して稍衰へたやうな観のあるのを遺憾とするのである。これ或は黒田氏自身十分技 倆を振うて居らぬ為め、全体の調子に多少の惰気を生じたのかも 知れぬ今回は前回の太平洋画会にローランスの絵が出たのと同じやうに、 コランの大幅が出品されてをる。コランは言ふまでもなく黒田久米氏等の師匠であつて、日 本人の多くは大抵氏の門下生である。太平洋画会のローランス、白馬会のコラン、仏国の二大家が日本で或る派の競争のお先きに舁がれてを るやうな現象は、いづれかと言へば洋画の為め喜ぶべきことであらう。若しローランスの画 を見て其門下たる太平洋画界の二三の作品と比較し、コランの画を見て 白馬会画家の制作と対照したならば、其間面白い研究の結果 を得ることであらうと思ふ。兎に角ことしの展覧会は左程に振はぬけれ共コラン の大作の為め場中に光明を放つてをるやうな気がする。詳しいことは各画に就いて意見を吐くことゝするが、先づ最初に概評を述べて置く。
展覧会といふことは画を見せるといふことであるけれ共、其見せかたの巧拙によつて観者に 快感を与へると否らざるとの区別がある。従来日本画でもさうであるが、ただ古道具店の売物のやうに何等の意味もなく犇々と掛け並べて、勝手に御覧なさいといふやうな体裁であつたのは、少なからず観者に不快の感を与へた。流石にこの会は会の歴史も古いだけに、其展覧の方法なども研究されて 居ると見え、今回の配列の仕方は、大に改良されてをつて、稍絵を見 るやうな心持がしたのである。兎に角熱心に見る者には多少目を休める空間 の程よく配置されん事を希望するので、休憩所にまで古画古仏を陳列して、一寸も眼に隙を与へぬ抔は、余りに残酷といふべきである。が、今回のは全く縁を絶た陳列室があつて、其徃来に画の掛けてない処を通るなど、或は画の少ない為め已むを得ぬ結果になつたかも知れぬが、配列 法は慥に一進歩を示して居る。先生たるコラン氏が婦人画専門で、軟かい絵をかくが為めでもあるか、この会の画にはいつ見ても、繊細な器用な 気のきいた粋なはでやかなといふやうなもの計りで剛健な粗笨なムキ出しな野暮な鈍臭いといふやうなのは一つも見當らぬ。筆先きの器用といふことが先きに立つて、趣向の堂々としたと云やうなものに欠乏してをる。何百枚といふ画の中には一枚や二枚 そんなのがありさうなものである。あつた方が会の余裕を示す点にもなる。つまり當世向きでな い点にも大に力を費して貰ひたく思ふのである。(同行二人)

前の記事
次の記事
to page top