白馬会管見(二)

  • △×生
  • 時事新報
  • 1905(明治38)/10/27
  • 11
  • 雑報

△中沢弘光氏の『残雪』は手のかゝつた上からも大きさの上からも場中屈指のものである、質素なくすんだ色を使はれたのは大方冬木立の寒むさうな趣を表 現させやうとの苦心に出でたものであらうけれど筆が徒らに細かくうるさくて其の細かいのが画面全体に格別の補益をなして居る様にも見えず否寧ろこしらえ 過ぎはせぬかと思はれた但し太き樹の根方が雪解の為めにぼつくり落ちた様な処などは作者苦心の程も思ひやられ若し何処か主要の部分に今少 し強いところがあつたならば此画は確かに引締つて見えたであらうにと誠に残 り惜しい心地がする
△小林千古氏の『神話』三枚つゞきのもので一と風変つたやり方 である、これ等の事を装飾的図案とかデコレーションとか名づけるのであらう、中央には 仏様の様なえらさうな人が立ち左の方で人が左も楽しさうに髑髏 に向つて花を捧げ右の方では又髑髏に対して如何にも未練らしく泣 き悲しんで居る、何れ作者に伺つたら人生観とか何とか意味深長な講話を一二時間も拝聴せねばならぬ処であらうが不幸にして左ういふ暇が ないのでツイ伺ひ落した、イヤ伺つた処で中々吾々如きの了解し得る段 ではあるまい、どう云ものか日本人の手になつた神話的の作品はたゞ一時の好奇心 に駆られて慰にやつて見たものとしか思へぬので有難味とか崇高とか云ふ 感念は何としても起つて来ない修養の足りぬ人が形や色の唯だその 事のみに左右されて仕舞つて肝心の意義に及ぶ暇がない為めかそれ共またさ る気高い絵を描くに相當な気高ひ頭脳を持つた人が描かない為めか兎 に角斯かる性質のものに軽忽な考へを以て取りかゝるのは大きな了簡違ひではあるまいか
△同氏の作で巴里で描ひたと云ふ。パステルがあつた法衣の様なも のを着た人が大地にころがりて居る図である、これは恐らくモデルに斯う云ふ風をさせて 描いた一の稽古画に過ぎぬであろう傅色の工合など一と風変つて大に異彩 を放て居る。小さな画が沢山あつて一々覚えては居ないが其内で婦人が机 に靠れて午睡をして居る絵があつた丸味をつけんが為めに腕だの膝だのをたゞ無 暗にくりくりさせた為になんだか骨の説明が怪しくなつて了つた様な気がする、描 き方はどちらかと云へば正直なのであらう
△湯浅一郎氏の巫女の画は同氏出品の内では可なりに骨を折つた作だが頭勝ちで腰から下がどうも怪しく全体に堅くるしく円熟を欠いて居る要するに失敗に終つたものであら うそれから京都にて描かれた多数の水彩画いづれも三時間に二枚平均位の作 であろう色の塗り方や筆の使ひ方の練習には至極便利、要す るに中々の達筆家である
△小林鐘吉氏の河岸の夕景随分不用意 な総て帆柱 空が一向に離れずたゞ赤黄色の上に幾本も線を 引た様に見える、此画のみではなく総ての作品に対しもつともつと正直にやら ねば所詮方針を誤のみで得るところは一もなしと云ふ悲しいことになりはすまいか

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