白馬会展覧会(四)

  • 日本
  • 1904(明治37)/11/10
  • 3
  • 展評

一、花(黒田清輝) 小幅の百合、紫陽花等いくつもあるが、かゝる画を注文して置けば、他の模倣し難い妙味がある。是非大作の画では失敗勝であつたが、 かゝるスケツチは多く成功して居る。黒田もスケツチで満足してをれば立派なものであるなどゝ京童の評のあるのも亦た其所以であらう。スケツチとは言へど、 「庭の隅」などになると、殆ど何と評すべき詞を見出さぬ。今少しく色の研究と共に、根本の趣味の涵養といふことに著目されんことを希望するのである。
一、大隈伯肖像(同人) 顔に油気がないといふのは適評である。赤土でこねた細工物然とした処がある。併しこれにも例の軽妙の筆致は慥に現はれてをる。軽 妙よりも堂々とした処が欲しいものである。
一、婦人肖像(藤島武二) 同じモデルを種々の工夫を凝して写生したもので、一面多少の面白味はあるが、六幅 とも一つとして感じのよいといふ画はない。つまり垢抜のした処がない。女の顔も妖婦然として居つて、どれにも一種の凄味がある。天使然とした柔和な天真爛 漫な処のないのは遺憾だ。
一、河畔(中丸精十郎) モザイク工場主の作中では出色の画で、青銅の若葉が目立つて見える処などは一寸面白い。
一、花園 (ジュリエット、ウヰツマン) 以下水に映ずる家(同人)白百合(同人)初秋(スエルナン、ケノツフ)風景(同人)等西洋人の作が、四五幅掛け列ねてある が、日本人の作に目なれて其前に立つと、殆ど別天地に接するの感がある。東西かくも技術の相違があるものかとたゞたゞ一驚を喫する迄である。西洋人の作で あるだけに場処とか、花とか、建築とかに、日本と異なつた処があるけれ共、特に奇想天外から落ちたといふやうな趣向ではなく、殆ど何人の目にも触れるべき 寧ろ平凡は取材であるにも関らず、其の配置、色の配合、遠近、明暗等整然として一糸も乱れざる観がある。自然図模様に対して何とも言へぬ爽快な感が起る。 今迄陰鬱とした■道を歩んで来たものが、天日輝々たる曠原に出たやうな思ひがする。これ抑も何に基因することであらうか我が済々多士なる白馬会の作家に向 つて再考を要するものがあらうと思ふ。
一、老婆(著者不明) 参考画として陳列せられた中の一小幅で、縦一尺四五寸横一尺位に過ぎぬが、左向きの老婆の 前半身を画いた処、何とも形容の出来ない妙味がある。其皺のよりかた、髪の禿げかゝつた処、形容枯稿の中に尚筋肉の水気を帯びた趣筆々人に迫る観がある。 殊にこの画について注意すべきは、其色の悉く黒味を帯びた元来が暗いものであるにも関らず、其画面を見ると、一点曖昧な点がなくて、一道の光り常に其上に 輝いて居るかの思ひをする点である他の多くの画を見ると、明るい色を用ゐて居りながら、画面は常に暗い。技倆の凡否によりてかゝる結果を来すのは是非もな いことであるけれ共、かゝる画を見ると、更に我が画界の為めに嘆息するの已むなきに至るのである。さるにても筆者の不明とあるのは稍物足りない。いづれは 西洋人の作であらう。

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