白馬会案内記(一)

  • 四絃
  • 都新聞
  • 1903(明治36)/10/09
  • 1
  • 展評

白馬会展覧会ハ回を重ねる事既に八回、黒田久米両氏の帰朝してより早や十年の星霜を経た今日に至つて、白馬会の絵画の変遷ハ即ち我洋画界一部の発達史で有て、白馬会内部の画家ハ勿論門外漢にも、多少の変遷ハ認める事が出来るので有る。
初めハ二十人内外の会員を以て出品総数僅かに百余点に満たざりし白馬会ハ、今や五十の出品人と数百の出品とを有する盛観を呈して来たので有るから、従て画家其人の特殊の傾向を持た画も多く、白馬会當時の面影ハ年一年と消滅して来たのも事実で有て、此処に変遷と発達とが顕はれて居るので有る。
其処で批評と云ふよりハ寧ろ白馬会の絵画の中で特殊の傾向を持て居る画と、傑作とを抜いて見て今回の展覧会に顕はれた傾向を見やうと思ふので有る。
第一衆人の目を驚かすものは今回の入口の建築で有て、横八間、高さ四間の黄土色の大門は秋空の清澄と相待つて一種厳かな感を与へてゐる之ハ元来が巴里ベルサイエの小トリヤノと云ふ宮殿の一部で、庭園に面した処の形を其の侭に写したもので、原物は黄色の石造なのを単に壁で顕はして居るルネツサンス式に依たもので有る。又門の上に掲げたモザイクハ宮殿の方にハ無いので有るが特に中丸精十郎氏の考案で作つたので、何故又之を門の装飾に用ゐたかと云へバ、世間でハモザイクなるものを知らず、知つて居るものも其の用途を解さない処から今回殊に衆人の注目を惹く為め、之を掲げたので、右のラフワエルハ伊太利画家で有る処から南部画家の代表者に選び、左のランブランハ和蘭画家で有る処から北部の代表者に選んだので有る其でラフワエルハアイデアリストを表しランブランハリアリストを表はして美術の二派を対照さしめたので有る。中央の白馬を馭して居るのハビクトワール(勝利の神)で競技を表はして居るのだ。左右の肖像ハ元来根拠の有るもので有るが中央のビクトワールハ悉く中丸の考案に成つたので有る。材料もエマイユにて作る可きもので有るのが重量に堪へぬ処から厚紙を用ゐて作つたものだ。

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