◎本年秋季の西洋画(下)

  • 中央新聞
  • 1901(明治34)/10/28
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  • 展評

◎三宅克己氏は十数面の水彩画を出陳してゐるが、其の熱心なる研究の結果 は年々の展覧会に現はれて居るやうだ、今回の出品中でも「朝 の松林」の如きは充分苦心惨擔の跡見え、先づ完全の作 といつて宜からう、「小川」の図は一見油絵かとも疑はるゝ程濃厚と出来て居 るが、前者に比すると稍や劣れるやうに思はる、元来氏はコバルトやグリーンに類 する絵具を幾度も重ねて一種深濃なる色彩を出すことを得意として居 るが此絵などは其の色彩が余り濃厚過ぎたせいか、水彩画としては却て軽快 の妙を欠くのみならず、之れが為め陰鬱に見ゆるは惜しむべき事である。
◎白 馬会の分は先づ此等で切り上げ、次には一寸日月会で出て 居る二三の水彩画に就て一言して見やう、同会出品の西洋絵は昨年 に較べると、其数も少なく、骨を折つた作品も見受けない、それに油絵の如きは殆んど四五面に過ぎないで、場中何となく物足りない心地がする。
◎五姓田芳柳氏の「薔薇」は水彩画中の白眉ともいふべきもので、流石に筆の熟した所が見える、同氏筆の「富士山」は色彩が余り単一であるため画面の奥行が足ないのと、堅苦しいといふ感じのあるは甚だ遺憾である、山の色 なども今少し空気を濃くかけたら宜かつたらうと思はれる、それに水の描き方も 不親切といふの外ない。
◎大下藤二郎氏の水彩画も随分沢山出て居るが、其中 で稍や筆者の意を得たものは秋と夏の二図と推察せらるゝ、「残雪」の図は水彩としては先づ大作の中で、なかなか骨も折れて居るやうであるが、その 結果の却つて前二者に及ばないのは是非もない次第だ、それに氏の作は全体 に未だ色の研究が足りないやうだ、現に何の図を見ても調色の深 くないために画が何んとなく浅薄に見ゆるといふ憾がある、此の残雪にも確 に其の癖が現はれて居るので、山も頗る近く見え、森も遠近の区別が立たない、然し氏が熱心なる勉強の効果の日に月に顕著な ることを認め得らるゝのは実に喜ばしきことである。
◎茲に筆を擱くに當つて一言したいのは彼の裸体画像の問題である、當局者の裸体画像に対する 意見に就ては既に世間に非難の声も高いから此方に譲つて、唯 だ一つ其の方針に付き質問したい事がある、元来當局者の云ふ所を聞くに「我日本には古来日本の風俗として見るべき特色ありて自か ら国風を為せり日進文化の今日なれば素より欧米の美風長所 は取て以て我短を補ふに吝ならざるも如何せん裸体画の如きは美術としては兎も角も風俗の上よりすれば断じて取締らざるを得ざる也」といつて 居る、然らば博物館に陳列してある裸体像は如何、窯業会や彫工 会の参考品として陳列せる裸体像は如何、此等に対しては其筋 にて何等の取締をもしないのではないか、或は當局者は画と像との区別 を立てたかといふに白馬会の彫像には悉く布片を纏ふてある、そこで博物館 や彫工会と此の白馬会とを如何なる理由にて区別されたかといふ にチツトも其理由を見出さない、或は又た白馬会展覧会は観覧料 を取つて居るから普通の興行物と見做して斯く取締をしたといふ者もあるが 此論鋒で行けば彫工会も同様である。
◎裸体の画像を公衆に観 せた例は是迄もあつたが、それが為め風俗を壊乱したといふ形跡は毫も見 出さない、今回の如きは當局者がアンナつまらぬことをした為め却て人の注意 を惹くやうになつた位だ、一体當局者に在ては美術といふことを少しも 眼中に置かないで美術作品の展覧会を普通の興行物と同一 視して居のは頗る褊狭の意見であらうと思ふ、若し大道などの看板 にペンキ屋の書いた裸体美人を掲ぐるやうな事は、風俗の上より取締の必 要はあるべきも純正美術に対しては敢て當局者の干渉する必要はないと考へる。

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